「烏丸鮮卑東夷傳ー東沃沮傳」を読む⑧ | 古代文化研究所

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○韓傳・濊傳・挹婁傳に引き続き、東沃沮傳を読んで行きたい。

  【原文】
 東沃沮在高句麗蓋馬大山之東,濱大海而居。其地形東北狹,西南長,可千里,北與挹婁、夫餘,南與濊貊接。戸五千,無大君王,世世邑落,各有長帥。其言語與句麗大同,時時小異。漢初,燕亡人衛滿王朝鮮,時沃沮皆屬焉。漢武帝元封二年,伐朝鮮,殺滿孫右渠,分其地為四郡,以沃沮城為玄菟郡。後為夷貊所侵,徙郡句麗西北,今所謂玄菟故府是也。沃沮還屬樂浪。漢以土地廣遠,在單單大領之東,分置東部都尉,治不耐城,別主領東七縣,時沃沮亦皆為縣。漢(光)〔建〕武六年,省邊郡,都尉由此罷。其後皆以其縣中渠帥為縣侯,不耐、華麗、沃沮諸縣皆為侯國。夷狄更相攻伐,唯不耐濊侯至今猶置功曹、主簿諸曹,皆濊民作之。沃沮諸邑落渠帥,皆自稱三老,則故縣國之制也。國小,迫于大國之間,遂臣屬句麗。句麗復置其中大人為使者,使相主領,又使大加統責其租税,貊布、魚、鹽、海中食物,千里擔負致之,又送其美女以為婢妾,遇之如奴僕。
 其土地肥美,背山向海,宜五穀,善田種。人性質直彊勇,少牛馬,便持矛歩戰。食飲居處,衣服禮節,有似句麗。其葬作大木槨,長十餘丈,開一頭作戸。新死者皆假埋之,才使覆形,皮肉盡,乃取骨置槨中。舉家皆共一槨,刻木如生形,隨死者為數。又有瓦櫪,置米其中,編縣之於槨戸邊。
 母丘儉討句麗,句麗王宮奔沃沮,遂進師撃之。沃沮邑落皆破之,斬獲首虜三千餘級,宮奔北沃沮。北沃沮一名置溝婁,去南沃沮八百餘里,其俗南北皆同,與挹婁接。挹婁喜乘船寇鈔,北沃沮畏之,夏月恆在山巖深穴中為守備,冬月冰凍,船道不通,乃下居村落。王頎別遣追討宮,盡其東界。問其耆老「海東復有人不」耆老言國人嘗乘船捕魚,遭風見吹數十日,東得一島,上有人,言語不相曉,其俗常以七月取童女沈海。又言有一國亦在海中,純女無男。又説得一布衣,從海中浮出,其身如中(國)人衣,其兩袖長三丈。又得一破船,隨波出在海岸邊,有一人項中復有面,生得之,與語不相通,不食而死。其域皆在沃沮東大海中。
(注)
・「櫪」字は、本当は金偏。字が無いので代用。

【書き下し文】
 東沃沮は高句麗蓋馬大山の東に在り、大海に濱して居る。其の地形は東北狹く、西南長く、千里ばかり、北は挹婁、夫餘と、南は濊貊と接す。戸は五千、大君王無く、世世邑落、各長帥有り。其の言語は句麗と大同、時時小異あり。漢の初め、燕の亡人衛滿、朝鮮に王たり、時に沃沮、皆焉に屬す。漢の武帝元封二年、朝鮮を伐ち、滿の孫右渠を殺し、其の地を分かちて四郡と為し、沃沮城を以て玄菟郡と為す。後、夷貊の侵す所と為り、郡を句麗の西北に徙す、今、所謂、玄菟故府は是れなり。沃沮は樂浪に還屬す。漢、土地の廣遠なるを以て、單單大領の東に在る、東部都尉に分置し、不耐城に治し、別かちて東七縣を主領す、時に沃沮亦皆縣と為る。漢(光)〔建〕武六年,邊郡を省し、都尉此に由りて罷む。其の後、皆其の縣中渠帥を以て縣侯と為し、不耐、華麗、沃沮の諸縣、皆侯國と為る。夷狄更に相攻伐して、不耐濊侯今に至りて猶ほ功曹、主簿諸曹を置き、皆濊の民之を作す。沃沮の諸邑落の渠帥、皆自ら三老と稱す、則ち故の縣國の制なり。國小にして、大國の間に迫り、遂に句麗に臣屬す。句麗、復、其の中大人を置き使者と為し、使は主領を相し、又使は大いに統を加へ、其の租税、貊布、魚、鹽、海中食物を責め、千里擔負して之を致し、又其の美女を送るに、以て婢妾と為し、之を遇すること奴僕の如くす。
 其の土地は肥美にして、山を背に海に向ひ、五穀宜く、田種善し。人性は質直彊勇にして、牛馬少なく、便ち矛を持して歩戰す。食飲居處、衣服禮節、句麗に似る有り。其の葬は大いに木槨を作り、長さは十餘丈、一頭を開きて戸を作る。新たな死者は皆假りに之を埋づめ、才使覆形,皮肉盡くれば、乃ち骨を取りて槨中に置く。家を舉げて皆一槨を共にし、木を刻みて生きた形の如くし、死者に隨ひて數を為す。又瓦櫪有り、米を其の中に置き、之を槨の戸邊に編縣す。
 母丘儉句麗を討ち、句麗王宮沃沮に奔る、遂に師を進め之を撃つ。沃沮の邑落皆之に破られ、首虜三千餘級斬獲せられ、宮北沃沮に奔る。北沃沮の一名溝婁に置く、南沃沮を去ること八百餘里、其の俗は南北皆同じ、挹婁と接す。挹婁喜び船に乘り鈔を寇す、北沃沮之を畏る、夏月は恆に山巖深穴中に在りて守備を為し、冬月冰凍すれば、船道通はず、乃ち村落に下居す。王頎、別に遣はして宮を追討し、其の東界に盡く。其の耆老に問ふ、「海東復た人有りや不や」と。耆老言はく、國人嘗て船に乘り魚を捕ふるに、風に遭ひ、吹くこと數十日を見、東に一島を得、上に人有り、言語相曉ぜず、其の俗は常に七月を以て童女を取りて海に沈むと。又言はく、一國有りて亦海中に在り、純べて女にして男無しと。又説くに、一布衣を得、海中從り浮き出づ、其の身は中(國)人の衣の如く、其の兩袖の長は三丈なりと。又一破船を得、波に隨ひて出づれば海岸邊に在り、一人有り、項の中に復た面有り、之を生得す、與に語は相通ぜず、食はずして死す。其の域は皆沃沮の東大海中に在り。

○東沃沮の存在するところは、北に挹婁と夫餘、東は大海、南に濊貊、西に高句麗が位置する。戸数は五千。言語は句麗と大同小異である。漢の武帝が元封二年(BC107年)に、朝鮮を伐ち、其の地を分かちて四郡を制定した時、沃沮城は玄菟郡となる。その後、小国であるから、句麗に臣屬することになった。句麗には相当圧政を受けた。

○魏の幽州刺史毋丘倹が万余の兵を率いて玄菟を出て位宮の討伐に向かったのは、『梁書』高句麗伝に拠れば正始五年(244年)のことになる。その際、東海中に住む人の話が出ている。女だけの国の話とか陳腐なものであるが、方角からすれば、倭国のことになる。案外、女だけの国の話は母系社会のことかも知れない。

○東沃沮は戸数五千で、それほど大国でもない。しかし、なぜか、その記述は詳細である。漢の武帝元封二年(BC107年)に、沃沮城に玄菟郡が設置されたからであろうか。

○東沃沮傳の字数は699字。