邪馬台国の虚像と実像⑨ | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○今回、ようやく魏志倭人伝からうかがえる邪馬台国の実像の話をする段になった。「邪馬台国の虚像と実像」と題して、,ら書き始め、とうとうまでになってしまった。もともと、これほど長く引きずる予定ではなかった。それくらい虚像が大きいと言うことになる。

○ここでは、倭人の地について、まず概容を述べる。

●魏志倭人伝に拠ると、当時、魏国と使譯の通じる倭人の国は三十国であった。もちろんそれ以外にも、倭の地には、多くの国が存在したことは、魏志倭人伝が、「魏国と使譯の通じる倭人の国は三十国」と規定していることからも明らかである。

●対馬や壱岐などが一国と認識されていることは、当時の国の概念は、相当小さい規模のものであることをうかがわせる。

●江戸時代まで日本は六十余国と言われていた。蝦夷国までで、ちょうど七十国であった。九州は筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅・壱岐・対馬・琉球の十二国であった。

●魏志倭人伝が掲げる倭国名は以下の通りである。

  ‥漏せ姐顱   紛藜抓攅顱β佛蝋顱Π躊国)
  ∨牟綵四国  (末蘆国・伊都国・奴国・不弥国)
  F邏綵三国  (投馬国・邪馬台国・狗奴国)
  っ羔綵F鷭醜顱 併枅蝋顱μι柑拗顱Π房拗顱ε垰拗顱邇奴国・好古都国・不呼国・
           姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
           鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国)

●この三十国が、魏志倭人伝の冒頭に記載されている「使譯の通じる倭人の国は三十国」であることは疑いのないところである。上記のように、整理して記録すると、各国の分布状況が分かる。

●実際、魏志倭人伝はそのように整理して記録している。ただ、二十国(魏志倭人伝の記録上は二十一国)を何処にもっていけば良いか、皆、悩まされてきた。しかし、渡海三国・北九州四国・南九州三国とあれば、残りは中九州しかない。これは当然の帰結である。

●二十国は決して散らばって存在したのではない。仮に、散らばって存在していたのであれば、東に○○国、西に○○国、北に○○国と表記したのではないか。二十国がまとまった国々として認識されたから、まとめて二十国と簡略に表記することが出来たと判断すべきである。

●だから、これまでのように、この二十国を日本各地に比定するような方法は、決して賢明な方法ではない。むしろ、そうしたことが邪馬台国を混乱させた一因にもなっている。

●この二十国を無理に比定することは止めるべきである。なぜなら、この二十国には、名称以外、規定づける根拠が一切無いのだから。それこそ、何処にでも自由勝手に比定出来る。そういうことは、賢明なものであれば、むしろ避けるべきことである。

●この三十国以外に、倭の地に国が存在したことは、魏志倭人伝の次の記事からも明らかである。

  女王国東渡海千余里復有国皆倭種
  【女王国の東、海を渡ること千余里、復た国有り、皆倭種。】

●ここに、「皆、倭種」とあるからには、一国や二国の存在ではなかろう。女王国の東には多くの国が存在したことが分かる。

●魏志倭人伝はそれ以外に、侏儒国・裸国・黒歯国なども紹介している。

●それから、魏志倭人伝が倭の地の紹介の最後に記録している、次の記事は、倭の地を規定する上で、どうしても見逃すことは出来ないものである。

  参問倭地絶在海中洲嶌之上或絶或連周旋可五千余里
  【倭の地を参問するに、海中の洲嶌の上に絶在し、或いは絶え、或いは連なり、
   周旋すれば、五千余里ばかりなり。】

●つまり、「倭の地に出掛けて行って、見てみると、倭の地は海の中に、島や洲として他と離れて存在し、離れたり、くっついたりして、ぐるりと一周すると、おおよそ五千里ほどになる。」と言うのである。これは、倭の地を規定する上で、決定的条件になっている。

●邪馬台国大和説を唱える書物では、魏志倭人伝の記録を検証すると言いながら、なぜか、この記事に触れているものは少ない。無視するか、誤魔化している。それほど、この記事は決定的な記事である。この記事に何も触れないで邪馬台国は決して語れない。この記事を無視したり、誤魔化したりするような書物は、すべてまやかしの書物である。

●だから、魏志倭人伝では、この記事は倭の地の紹介の最後に記録されている。この後には、「景初二年六月」と、倭と魏の交流関係の記事が並ぶ。それほど重大な記事である。

●倭の地を規定するのに、最後に、魏志倭人伝の次の記事について述べる。

  計其道里當在会稽東冶之東
  【其の道里を計るに、當に会稽東冶の東なるべし。】

●この記事から、倭地が会稽東冶の東であるなら、北緯26度あたりに位置することになる。それを、日本の現在地に当てはめると、緯度で北緯26度であれば、ちょうど沖縄県那覇市の位置になる。随分と南に位置することになる。

●もちろん、三世紀当時の認識だから、相当誤差も大きいことを考慮しなくてはならない。九州南部であれば、誤差の許容範囲内であろうが、北九州では少し無理がある感じになる。近畿とするのは、いくら何でも無理だろう。

○魏志倭人伝で、邪馬台国の名が出てくるのは、わずかに一回、次の記事だけである。

   南至邪馬壹国。女王之所都。水行十日陸行一月。
   【南邪馬壹国に至る。女王の都する所なり。水行すること十日、陸行すること一月なり。】

●後は、倭(16回)・倭地(2回)・倭国(3回)・女王国(5回)と記録されている。もちろん、倭や倭地、倭国は、「魏国と使譯の通じる倭人の国、三十国」の概念で使われている。女王国は5回出現するが、一例を除き、他は全て邪馬台国の概念である。

●邪馬台国と言う名称が、何回か魏志倭人伝の中に存在していれば、もっといろいろなことが分かったのではと思うが、魏志倭人伝が記す記録はわずかに一回きりである。ちなみに、卑弥呼の名は五回掲載されている。

○長くなったので、次回に繋げたい。