邪馬台国の虚像と実像⑧ | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○これまで「邪馬台国の虚像と実像」と題して、邪馬台国の現状について述べてきた。邪馬台国問題は、古くは日本書紀編纂の時から始まっていたと思えるのだが、本格的に問題となったのは、江戸時代中期に、新井白石や本居宣長によって始まったと言えよう。以後、綿々と現代に到るまでその研究は続いているのであるが、一向に解明されていない。

○その最大の原因は、何と言っても、邪馬台国が記されている魏志倭人伝の読解が不十分であることに尽きる。わずか1984字の記事である魏志倭人伝がどうしてそれほど読解不可能であるのか。誰もが不思議に思うであろう。

○魏志倭人伝の読解を不可能にしている一番の理由は、魏志倭人伝全体から魏志倭人伝の真意を汲み取ろうとする努力の欠如である。ある人は魏志倭人伝の一部分に固執し、またある人は魏志倭人伝の記事のあら探しに奔走し、それを喜んでいるような研究態度からは、決して魏志倭人伝の真意は現れて来ない。

○もとより、魏志倭人伝は三世紀の書物である。従って、それなりの配慮をしながら、全体として、魏志倭人伝が伝える当時の倭の地の様子を捉えるほかないのである。これまで、魏志倭人伝は、里数が曖昧であると批判したり、方角がおかしいとケチを付けたり、壱の字が正しくて、臺の字は間違いだと言うような、つまらないことに振り回されてきた。そういう部分部分にばかり執着する論議ばかりが展開され、肝心の邪馬台国の存在自体がなおざりにされてきたのではないか。

○また、陳寿と言う偉大な歴史家を侮り、侮辱するような発言ばかりが目に付く。「三国志」と言う名著を著した陳寿は本当にそれほど愚かな人物であったのだろうか。そんなつまらない陳寿であれば、問題にすることを止めたがよかろう。しかし、本当は、陳寿は極めて優れた歴史家であって、彼の力作である「三国志」=魏志倭人伝を読みこなせない読者が愚かであることに、そろそろ気付く時期ではないか。

○陳寿は、三世紀当時の最高の史家であって、その彼が最大限の労力を費やし、記録した魏志倭人伝は当然、最高の傑作であるはずである。それを読みこなせないのは、全体、現代の読者にその能力がないし、その努力を怠っているからではないか。

○「魏志倭人伝を読む」シリーズ,ら瓦蓮⇔記ではあるが、かいつまんで、魏志倭人伝からうかがえる邪馬台国の全貌を示したものである。「魏志倭人伝を読む」シリーズ,ら瓦砲蓮Å音嶇楚妖舛呂匹ζ匹爐戮かを提示したつもりである。

○魏志倭人伝の部分に執着せず、字義に拘泥するのではなく、著者陳寿の真意が何処にあるかに注目し、魏志倭人伝全体から部分を読んで行こうと努力した結果である。そういうふうに読めば、魏志倭人伝はああしか読めないのである。これは、誰が、何時、読んでも、そうなるはずである。

○読書には、多くの時間と労力が要求される。現代人には、書写してまで、読書する努力を要求することが困難になってきている。そこまでして読書を楽しむ人は少ない。しかし、三世紀、そういう読書が当たり前の時代であった。そういう読書方法からしか、本当の読解は生まれて来ないのである。

○「魏志倭人伝を読む」シリーズ,ら瓦蓮Å音嶇楚妖疏管瑤魏寝鵑盻饉未掘⇒諭垢焚椎柔を考慮し、何回も推敲した結果、生まれたものである。だから、そういう努力をした者にしか読めないようになっている。一見して、結論だけをつまみ食いするような読者には、到底理解不可能であろう。もともと、そういう読者を期待していない。

○実は、魏志倭人伝そのものが、そういう書物なのである。決して片手間に読むようには、出来ていない。わずか1984字と言うが、これまで誰もきちんと読み取った者は誰も居ない。1984字は、書写し、熟読し、考慮し、配慮し、それを規定するには、実は相当厄介な代物なのである。それが理解出来ない読者は最初から著者に相手にされていないのである。

○選ばれた読者になるには、ひたすら魏志倭人伝と格闘するしかない。そうすれば、1984字がどんなに偉大な数であるかが理解されよう。

○「宮崎市定全集5 史記」を読んでいる時、たまたま、次のような記載が目に付いた。
   このように『史記』においては何よりも、本文の意味の解明を先立てなければならないが、これは
  古典の場合已むを得ない。古典の解釈は多かれ少なかれ謎解きであって、正に著者との知恵比べであ
  る。そしてこの謎解きに失敗すれば、すっかり著者に馬鹿にされて了って、本文はまっとうな意味を
  伝えてくれないのである。(「宮崎市定全集5 史記」自跋)

●宮崎市定の紹介する史記読解や論語読解は、私たちに新しい史記世界や論語世界を教えてくれた。著者の立場に立つ、独自の史記読解、論語読解には、史記や論語の書かれた様子までが覗われる。真の読書とはこういうものではないか。

●その宮崎市定が述べる史記の読み方は、魏志倭人伝の読み方に大いに参考になる。まさしく宮崎市定が教えるように、魏志倭人伝も読むべきだと思う。

○パブロ・ピカソの絵や彫刻を解しようとすれば、多くのピカソの絵に触れるしか方法はない。また、キュビズムを理解しない限り理解は出来ない。さらに、西洋美術の流れ全体をある程度、把握しない限り、楽しむことは不可能だろう。

○それと同じく魏志倭人伝は、何時でも、誰でも読むこと自体は可能であるが、理解することは難しいのである。魏志倭人伝を読んだからと言って、理解出来たとは限らない。多くの人にそれを訴えたい。多くの人にそれを理解して欲しい。

○邪馬台国の虚像ばかり問題にして、なかなか邪馬台国の実像に迫れない。ただ、こういうふうに考えること自体が邪馬台国の実像に迫る一歩だと思うのである。