邪馬台国の虚像と実像⑩ | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○魏志倭人伝を詳細に読むと、いろいろなことが分かる。今回は、倭の地を規定する表現の存在について、述べてみたい。前回と重複する部分も多いのであるが、念には念を入れて、論じたい。

●一つは、倭の地を規定する表現の存在する箇所についてである。魏志倭人伝では、内容上、一区切りするところに、必ず、倭の地を規定する表現が存在している。列挙すると、
   〆使訳所通三十国。
   ⊆郡至女王国萬二千余里。
   7彗尭士め頂濂餬療賁蠻慧譟
   せ果簣礎論篋潦っ羹V最珪紂或絶或連周旋可五千余里。
以上が、倭の地を規定する表現である。

○「〆使訳所通三十国。」とは、倭の地で、魏国と交流のある国が三十国存在したことを意味する。これまでも何回も触れてきたが、倭の地には、この三十国以外に多くの国が存在した。魏国と当時、交流のあった国が三十国と言うことになる。

●後世の出雲国(島根県)や吉備国(岡山県)、大和国(奈良県)、山背国(京都府)、河内国(大阪府)などにも、当時、国が存在したことは、遺跡や遺物の分布状況などから間違いのないことである。しかし、それらの国は、当時、魏国と交流がなかった。だから、この三十国には該当しない。

●魏志倭人伝はあくまで、魏国の歴史書である。遺跡から、当時の魏国のものと思われるものが出土したからと言って、そこが必ずしも三十国の一つになるわけではない。なぜなら、魏志倭人伝は魏国の史書だから、向こうが三十国に認めなければ、その中に入るはずはあり得ないのである。魏国の都合で書かれているのが魏志倭人伝である。倭国の都合は一切関係ない。

●「邪馬台国論争」の著者、佐伯有清の言葉を借りれば、熱狂的近畿大和偏愛主義者が、いくら声を大にして、邪馬台国近畿大和説を唱えたところで、残念ながら、魏志倭人伝に基づく限り、近畿には邪馬台国はあり得ない。

○「⊆郡至女王国萬二千余里。」は、帯方郡から女王国、つまり邪馬台国までの全行程距離を述べている。これもすでに検討したことであるが、再掲すると、
   ∥喨?瓦ら、 水行、七千余里(実数780辧砲如狗邪韓国到着。
   句邪韓国から、渡海、 千余里(実数114辧砲如◆∥佛蝋馘?紂
   B佛蝋颪ら、 渡海、 千余里(実数 55辧砲如◆^躊国到着。
   ぐ躊国から、 渡海、 千余里(実数 27辧砲如◆)?湛馘?紂
となり、帯方郡から末蘆国到着までで、合計一萬余里となる。だから、末蘆国から邪馬台国までの距離数は、二千余里である。

●さらに、末蘆国から伊都国(五百里)、奴国(百里)、不弥国(百里)と東へ進むわけだから、残りの距離数は千三百余里になる。

●そうすると、「投馬国まで水行二十日」と「邪馬台国まで水行十日陸行一日」との合計距離数が、千三百余里と言うことになる。

●ただ、行程はすべて水行だと思われるから、距離数自体が極めて曖昧であることは、念頭に置いておくべきである。距離数は参考に過ぎず、過信することは控えたい。

●末蘆国以降、一回も渡海の記事は見られないから、陸伝いに水行したと判断すべきである。魏志倭人伝は水行と渡海を明確に区別している。

●ここからも、やはり邪馬台国は九州内に存在したとする方が賢明な選択ではないか。それも、北九州では無理がある。南九州とするのが自然である。

○「7彗尭士め頂濂餬療賁蠻慧譟」の記事については、前回にすでに触れたので、結論だけを掲げる。

●緯度で言うと、「会稽東冶之東」は、北緯26度だから、沖縄県那覇市あたりになる。誤差を考慮に入れても、南九州あたりが妥当な線である。近畿説が成り立つことには、無理がある。

○「せ果簣礎論篋潦っ羹V最珪紂或絶或連周旋可五千余里。」についても、前回触れた。ここで限定される倭の地は極めて狭い範囲であって、到底、近畿までそれを拡大解釈することは不可能であろう。

●前に、「邪馬台国は何処にあったか」で触れたことだが、仮に、魏志倭人伝の伝える倭地を丸い円だとすれば、「五千余里=2πr」の式が成り立つ。rは円の半径である。半径rを800里にすると、「5024里=2πr」になることから、倭地の直径は千六百余里ほどになる。

●つまり、九州島は一周五千余里であると規定する表現が上記の表現になる。この中に、倭の三十国は存在するわけである。そう考えると、渡海三国・北九州四国・南九州三国、それに中九州二十国と言う魏志倭人伝の倭の地の国配列が見えてくるはずである。少なくとも、魏志倭人伝の著者陳寿はそう意識していた。でなければ、魏志倭人伝のああいう記述法は採らないはずである。

○以上のように、分析してみると、分かるように、魏志倭人伝の著者陳寿は、極めて頭脳明晰である。倭の地が手に取るように分かりやすく記録・表現されている。流石、陳寿と感心する。素直に、丁寧に魏志倭人伝を読むと、そのことがよくわかる。

○長くなったので、ここら辺で止めて、邪馬台国の実像について、次回に繋げたい。