革堂 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯2023年1月30日、京都定期観光バス『都七福神めぐり』に乗って、『都七福神まいり』をした。朝9時40分に、京都駅前の定期観光バス乗り場から出発した。バスは満員だった。この『都七福神まいり』は、余程、人気があるらしい。

◯最初、『松ケ崎大黒天』にお参りし、次が『赤山禅院』で、福禄寿神詣でだった。この二つが比叡山の麓に存在する寺だった。その後、バスに乗り、京都の町中へ帰って来た。三番目に訪れたのが革堂である。ここは寿老神を祀ってある行願寺と言う寺で、住所は、京都市中京区行願寺門前町になる。

◯革堂のホームページには、次のように載せる。

      革堂について

      因縁生起

霊麀山行願寺と号する天台宗の寺院で、西国三十三所観音霊場の第十九番札所です。
寛弘元年(1004)に行円上人によって、一条小川(上京区)に創建されました。子を孕んだ母鹿を射止めてしまったことを悔いた上人が、常にその皮をまとって鹿を憐れみ、人々から皮聖と呼ばれていたことから、革堂と呼ばれるようになりました。
以後、人々からの厚い信仰を受け、町堂として大いに栄えたが、度々の災火により寺地を転々とし、宝永五年(1708)の大火の後、当地に移されました。
現在の本堂は、文化十二年(1815)に建てられたもので、堂内には行円上人の作と伝えられる本尊千手観音像を安置しています。
境内には、都七福神巡りの一つになっている寿老神堂をはじめ、愛染堂、鎮宅霊符神堂、加茂明神塔などがあります。

 

◯別に、ウィキペディアフリー百科事典には、次のように載せる。

      行願寺

行願寺(ぎょうがんじ)は、京都市中京区行願寺門前町にある天台宗寺院山号は霊麀山(れいゆうざん)。本尊千手観音。通称は革堂(こうどう)。西国三十三所第19番札所。洛陽三十三所観音霊場第4番札所。西国三十三所で唯一の尼寺である。

 

◯霊麀山行願寺は、天台宗のお寺で、西国三十三所の第十九番札所で、ご本尊は千手観音像だとする。その境内に、寿老神堂が存在した。ただ、寿老人そのものは、次のような存在である。

      寿老人

寿老人(じゅろうじん)は道教神仙)。中国の伝説上の人物。南極老人星(カノープス)の化身とされる。七福神の一柱。

真言サンスクリット)は、「オン バザラユセイ ソワカ」(普賢菩薩の延命呪と同じ)。

を好み頭の長い長寿の神とされる。日本では七福神として知られているが、福禄寿はこの寿老人と同一神と考えられていることから、七福神から外されたこともあり、その場合は猩猩が入る。寿老人は不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである牡鹿を従えている。手には、これも長寿のシンボルである不老長寿のを持っている。

 

◯別に、中国道教の老子だとも言う。なかなか正体不明の存在である。ちなみに、当古代文化研究所では、老子の故郷、河南省周口市鹿邑县太清宫镇には、すでに参詣済みである。

  ・テーマ「老子故里」:ブログ『老子故里:河南省周口市鹿邑县太清宫镇』

 

◯七福神のうち、福禄寿神、寿⽼神、布袋尊の三神が中国生まれだとする。それが泰山府君であり、老子であり、布袋尊だとすれば、なかなか良く中国の信仰を理解していることが判る。中国で、すでに、神仏習合は発生していた。それが日本へ導入された証拠となる。そういう意味でも、七福神信仰は興味深い。

◯当古代文化研究所が、今回、『都七福神まいり』に参加した理由も、実はそこにある。意外に、日本の神仏習合は根が深い。たぶん、それは三世紀まで、遡ることができる。当古代文化研究所では、そういうふうに判断している。