下御霊神社 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯2023年1月30日、京都定期観光バス『都七福神めぐり』に乗って、『都七福神まいり』をした。朝9時40分に、京都駅前の定期観光バス乗り場から出発した。バスは満員だった。この『都七福神まいり』は、余程、人気があるらしい。

◯『松ケ崎大黒天』から『赤山禅院』、『革堂』と巡った。その『革堂』の北隣りに存在するのが

下御霊神社である。『都七福神めぐり』とは、直接関係無いが、気になったので、そのまま案内しておきたい。

◯ウィキペディアフリー百科事典が案内する下御霊神社は、次の通り。

      下御霊神社

下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)は、京都市中京区下御霊前町にある神社。旧社格府社。社名は上御霊神社に呼応するものである。

桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊祟りであるとして、貞観5年(863年)5月20日、平安京神泉苑御霊会が催された。この御霊会が当社および上御霊神社の創祀であるとしている。古来、京都御所産土神として崇敬された。

元は愛宕郡出雲郷の出雲路にある下出雲寺御霊堂に祀られていた。北には上出雲寺御霊堂と呼ばれていた上御霊神社があった。後に新町出水に移され、その後、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の都市整備にともない現在地である西園寺実氏の別荘・常盤井殿があった地に遷座した。

 

◯インターネット検索すると、下御霊神社のホームページがヒットした。

      下御霊神社

      由緒・沿革

平安時代は国風文化・貴族文化が隆盛した時代である事は皆様よくご存知だと思いますが、一方で災害や疫病の流行が繰り返し起こった不安な時代でもありました。医術や科学が未発達の時代において次々に起こる災いになす術がなく、官民を問わずその恐怖に畏れおののいた事でしょう。

当時の人々はその原因を貴人の怨霊がもたらすものと考え、御霊(ごりょう)としてお祀りをしお慰め申し上げることにより、災禍からお守りいただこうと御霊会(ごりょうえ)を行うようになりました。
初めは京の郊外でそれぞれの御霊が祀られていましたが、後にまとめて八所御霊としてお祀りする事で御神徳が高まると考えられ当社が鎮座されたものと思われます。
怨霊となった貴人とは政治抗争の中で冤罪を被り非業の死を遂げられた方々でございます。

当社は神泉苑御霊会に祀られた六座に二座加えた八座をお祀りしており八所御霊と申します。
鎮座された年について雑誌などで間違って伝わっておりますが、本当の所は全く不明でありまして、おそらくこの頃祀られたと考えられます。初め愛宕郡出雲郷の下出雲寺(のちに廃絶)の境内に鎮座されたと伝わっております。今で申しますと寺町今出川の北辺りと考えられます。後に新町出水の西に移り天正18年(1590)に現在地に鎮座されました。

 

◯京都で、御霊信仰は絶大なるものがある。祇園の八坂神社がそうである。京都には、それだけ、多くの怨霊が存在すると言うことなのだろう。極めて、特異な信仰である。

◯以前、宮城県名取市愛島笠島の笠島道祖神にお参りしたことがある。この笠島道祖神は、京都の出雲路の神様だったと言う伝承があることを知って、驚いた。その話を載せるのが「源平盛衰記」だと言う。実方中将は、そのせいで、此処で亡くなっている。

◯そういう意味では、この下御霊神社の御祭神は、もともと出雲神だったと思えてならない。もちろん、出雲神は神仏習合の神である。祇園の八坂神社も同様である。革堂と下御霊神社とが並んで存在することも気になった。今のところ、皆目、不明とするしかない。