化野念仏寺 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯『化野』と書いて「あだしの」と読む。なかなか難しい読みである。大覚寺から『化野念仏寺』へと移動した。途中、面白いことなどもあったりしたが、ブログに載せる余裕が無い。何しろ、大覚寺で八個ものブログをものしているのだから。

◯さすがに、この付近まで足を伸ばす観光客は少ない。お陰で、ゆっくりとお参りできた。『化野念仏寺』のホームページには、次のように載せる。

      華西山東漸院念仏寺

寺伝によれば、化野の地にお寺が建立されたのは、約千二百年前、弘法大師が、五智山如来寺を開創され、その後、法然上人の常念仏道場となり、現在、華西山東漸院念仏寺と称し浄土宗に属する。

「あだしの」は「化野」と記す。「あだし」とははかない、むなしいとの意で、又「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化る事や、極楽浄土に往来する願いなどを意図している。

この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬となり人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。

境内に奉る多くの石仏・石塔は往古あだしの一帯に葬られた人々のお墓である。何百年という歳月を経て無縁仏と化し、あだしのの山野に散乱埋没していた。

明治中期に地元の人々の協力を得て集め、極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聴く人々になぞらえ配列安祀してある。賽の河原に模して「西院の河原」と名付けられた。

 

◯別に、ウィキペディアフリー百科事典には、次のように載せる。

      化野念仏寺

化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)は、京都市右京区嵯峨鳥居本化野町にある浄土宗寺院山号は華西山。本尊阿弥陀如来化野東山鳥辺野(とりべの)、洛北の蓮台野と並ぶ平安時代以来の墓地であり、風葬の地として知られる。

伝承によれば弘仁2年(811年)、空海が当地に野ざらしになっていた遺骸を埋葬して供養のために千体の石仏を埋め、五智如来の石仏を建てて五智山如来寺を建立したのに始まるとされる。その後、法然が念仏道場を開き、名称も念仏寺となったという。

本尊は阿弥陀如来像(寺伝では湛慶作というが実際の作者は不明)、本堂は江戸時代正徳2年(1712年)に寂道により再建された。

 

◯京都の歴史は古い。そういうところには、恐ろしいほどの墓が存在したりして、驚かされることが多々ある。もっとも、最近は、そういう墓地を破壊して、近代的な建物が建ったりする。世の中は、何とも凄まじい。

◯『化野念仏寺』のお墓は立派なものが多い。とても庶民のお墓では無い。そんな気がした。