津崎村岡碑 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯2022年12月21日に、大覚寺を訪れ、すでに6個ものブログをものしている。早く先へ進まないと、まるで、ブログが進まない。今日は2024年5月15日である。一年どころか、一年半前の話を書いていることになる。

◯だからと言って、せっかく見聞してきたことを等閑にするわけにも行かない。今回の話は、『津崎村岡碑』の話になる。大覚寺の大沢池の畔に建っていた碑になる。そこには、次のような案内板が設置してあった。

      津崎村岡碑

    近衛忠熈公(このえただひろこう)篆字額

    明治二十五年建立

  村岡矩子、天明六年嵯峨に生まれる。近衛忠熈に仕え、村岡局を名乗る。

  幕末から維新にかけての女性勤王派で、成就院の僧月照や西郷隆盛らと

  交友をもち、運動を助ける。

  晩年は、北嵯峨の直指庵隠居し、付近の子女の教育に尽くし、庶民の慈
  母として親しまれる。

  明治六年、八十八歳で歿した。

 

◯それ程、大きな碑では無いが、格好が良い碑である。機会があれば読んでみたい碑である。しかし、それには、まず、碑の掃除から始めなくてはならない。なかなか、そういう時間が取れないのが残念である。

◯インターネットで検索したら、次のページがヒットした。

      津崎村岡局の銅像

 この銅像は、幕末の勤王家、津崎村岡局の像で、昭和3年(1928)、原型作者中牟田三次郎(なかむたさんじろう)、設計者阪谷良之進(さかたにりょうのしん)の製作によって建てられた。
 村岡局、名は矩子(のりこ)、天明6年(1786)、嵯峨に生まれ、父は津崎左京。近衛忠熈(このえただひろ)に仕え、村岡局と名乗った。嘉永6年(1853)ペリーの来航とともに幕末の政局は俄に慌ただしくなり、近衛卿は尊王攘夷派の公家として頭角を現した。局は、僧月照(げっしょう)や水戸の鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)らと親交を持ち、志士相互及び志士と公家との連絡に当たり、特に、近衛卿や西郷隆盛(さいごうたかもり)らの運動を助け活躍した。このため、安政5年(1858)井伊直弼(いいなおすけ)による安政の大獄が起こると、局も捕えられて江戸に送られ、永の慎に処せられた。その後、近衛家を辞して北嵯峨の直指庵(じきしあん)に隠居、付近の子女の教育に尽くした。村岡局は維新の女傑といわれているが、晩年は嵯峨庶民の慈母でもあった。明治6年(1873)88才で没した。右京区嵯峨亀ノ尾町(亀山公園内)