圓徳院・三面大黒天・歌仙堂 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯前回、ブログ『ねねの道』を案内したが、その際『ねねの道』について、次のように書いた。

  円山公園から高台寺南門通りへ到る道が『ねねの道』であるらしい。

◯諸本では、そのように案内しているが、ウィキペディアフリー百科事典の「圓徳院」項目の中では、次のように案内している。

  江戸時代に高台寺北門から続く参道であった、当寺と高台寺の間は

  現在では「ねねの道」と呼ばれている。

◯つまり、『ねねの道』の概念がまるで違う。あくまで、当古代文化研究所の一私見だが、もともと『ねねの道』とは、当寺と高台寺の間だったのではないか。それが一番相応しい気がする。

◯圓徳院のホームページが案内する圓徳院由来は、次の通り。

      圓徳院由来

    圓徳院は、豊臣秀吉の妻、北政所ねね終焉(しゅうえん)の地です。 

    その由来と関連年譜を紹介します。

 豊臣秀吉の没後、その妻北政所ねねは「高台院」の号を勅賜されたのを機縁に高台寺建立を発願し、慶長10(1605)年、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を山内に移築して移り住みました。
 それ以来、大名、禅僧、茶人、歌人、画家、陶芸家等多くの文化人が、北政所を慕って訪れたと伝えられています。ねね58歳の時のことです。
 これが今日の圓徳院の起こりです。ねねは77歳で没するまで19年間この地で余生を送り、ここは北政所の終焉の地となりました。
 そのねねを支えていたのが、兄の木下家定とその次男の利房です。圓徳院は利房の手により、高台寺の三江和尚を開基に、木下家の菩提寺として開かれ、高台寺の塔頭とされました。寛永9年、ねねの没後9年目のことです。

 

◯別に、ウィキペディアフリー百科事典が案内する圓徳院は、次の通り。

      圓徳院

圓徳院(えんとくいん、常用漢字体:円徳院)は、京都市東山区にある臨済宗建仁寺派寺院高台寺塔頭本尊釈迦如来豊臣秀吉の正室・北政所が晩年に自身の本拠地としたことで知られるほか、一説にはその終焉の地ともいう。所蔵されている三面大黒天は秀吉の念持仏と伝わるものである。

 

◯圓徳院へお参りしたが、境内は極めて狭いものであった。そこに大黒天堂や歌仙堂など、多くの建物が所狭しと建ち並んでいる。まさに観光寺院のイメージそのものであった。見物客も多い。そんな感じだった。