華頂山知恩院 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯円山公園の隣にあるのが華頂山知恩院である。知恩院のホームページが案内する知恩院は、次の通り。

      知恩院とは

承安5(1175)年、浄土宗の開祖法然上人(ほうねんしょうにん)が吉水の地に草庵を結ばれたことを起源とし、法然上人がお念仏のみ教えを広め、入寂された遺跡に建つ浄土宗の総本山です。正式名称は華頂山知恩教院大谷寺といいます。
江戸時代、浄土宗を信仰した徳川家康公が、当寺を京都における菩提所と定めたことから寺領が拡大され、現在の大伽藍が築かれました。

 

◯ウィキペディアフリー百科事典が案内する知恩院は、次の通り。

      知恩院

知恩院(ちおんいん)は、京都市東山区林下町にある浄土宗総本山寺院山号は華頂山(かちょうざん)。本尊法然上人像(御影堂)および阿弥陀如来像(阿弥陀堂)。開山は法然である。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。

浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。

 

◯その法然については、次のように案内する。

      法然

法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。法然は房号で、源空げんくう、幼名を勢至丸、通称は黒谷上人吉水上人とも。

 

◯日本で、どうして阿弥陀信仰が発生したのか。そういう話がなかなか説明されない。それは第3代延暦寺座主円仁である。天台宗からは、なかなか阿弥陀信仰は誕生しない。円仁が五台山からもたらしたのが、日本の阿弥陀信仰になる。

◯もし、円仁が五台山へ参詣しなかったら、日本の阿弥陀信仰がこれ程流行することは無かったのではないか。中国の阿弥陀信仰は廬山の慧遠から始まるとされるが、専ら阿弥陀信仰を広めたのは、曇鸞で、山西省吕梁市交城县に玄中寺を開山した。その後、五台山を中心に中国では阿弥陀信仰が広まったとされる。それが曇鸞であり、道綽、善導だと言うことになる。

◯そういう阿弥陀信仰を日本へ持ち込んだのが円仁である。比叡山横川に住し、第三代天台座主となり、慈覚大師と呼ばれた。その後、その横川に恵心僧都源信が出ている。源信は日本の浄土教の祖と称され、良忍や法然、親鸞などに多大な影響を与えた。

◯その法然が東山の吉水に吉水草庵を営んだ。それが知恩院の始まりとされる。当古代文化研究所は浄土真宗の信徒であるから、こういう流れが気になる。廬山にも登り、慧遠の足跡を辿っている。また、五台山にも参詣し、中国仏教の起源の一つを実見している。