◯上醍醐の始まりは、『成身院(女人堂)』から始まる。醍醐寺の受付は仁王門で済ませるが、上醍醐の受付は別で、女人堂脇で受付を済ませる。同じ醍醐寺のはずなのに、何故か、別々になっている。
◯女人堂を入ったすぐ先に、
史跡 醍醐寺境内
の大きな標柱が建っていた。いよいよ山道に入る雰囲気である。しかし、道はなだらかで、歩き易い。参道脇には、あちこちに外灯と思しきものも存在した。標高450mとあるし、約一時間を要するとの案内もあったから、心して登ることとする。
◯少し行ったところに、三丁の案内標識があった。どうやら、丁で案内されているらしい。一丁は60間で、約109㍍である。つまり、一丁ごとに案内標柱があることになる。これは丁寧な案内である。
◯五丁の案内標柱の先に、『醍醐の花見』の案内板があって、それには、次のようにあった。
醍醐の花見
慶長三年(一五九八年)三月十五日、秀吉は一世の善美を尽くした花見を
この槍山で催した。千畳敷とも呼ばれる平地には新しい花見御殿がたてられ
た。又、女人堂から槍山までの間には、長束正家はじめ各武将により趣向を
こらした茶屋八棟が設けられた。
この花見にさきがけて山内馬場先から槍山に至る両脇には畿内より集めた
桜の木七百本を植えさせた。
花見の当日、秀吉は秀頼。北政所・西の丸(淀君)・松の丸・三の丸を従え、
山下の桜が一望できる槍山の御殿で花見の和歌を短冊にしたため桜の枝につり
下げた。秀吉の栄華を誇る豪華な花見であった。
[保存資料]重文・醍醐花見短冊(一三一葉・霊宝館所蔵)
重文・純浄観(旧花見茶屋・三宝院に移築)
総本山 醍醐寺
◯ウィキペディアフリー百科事典が案内する『醍醐の花見』は、次の通り。
醍醐の花見
醍醐の花見(だいごのはなみ)とは、慶長3年3月15日(1598年4月20日)、豊臣秀吉がその最晩年に京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した花見の宴。
豊臣秀吉は豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な花見を催して、九州平定直後に催された北野大茶湯と双璧を成す秀吉一世一代の催し物として知られる。これに先立つこと4年の文禄3年(1594年)春に、天下統一を成し遂げ、文禄の役が一段落した秀吉は、桜の名所・吉野山で「豊公の吉野の花見」を催し、徳川家康・伊達政宗など名将に仮装させて、その他5,000人が参加する盛大で、庶民も参加する多彩な花見だった。
醍醐の花見はその4年後に京都で催した花見で、記録に残るその日の輿の順は、1番目に北政所、2番目に西の丸殿(淀殿)、3番目に松の丸殿、4番目に三の丸殿、5番目に加賀殿、前田利家正室・まつが続いた。