卑弥呼が日本の国母であること | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯ここまで、ブログ『卑弥呼の正体』で、卑弥呼とは、大和国一宮が齋き祀る、大物主大神であり、すなわち出雲神であり、卑弥呼の名は『ヒムカ』であって、『日向』国名となっていることを話した。それだけでも、十分、大きい名であることが判る。

◯しかし、卑弥呼の凄さは、それだけで終わらないところにある。そのことについて、続けて、ブログ『卑弥呼の鬼道』で案内したように、卑弥呼は日本国中に、現在でも齋き祀られていることを話し、同時に、卑弥呼が日本へ仏教を招来した話をした。

◯こうなると、日本の精神的概念の基幹を構築したのが卑弥呼であることが判る。どういうことかと言うと、日本の神仏習合はすでに三世紀から始まっていると言うことになる。つまり、神代の時代から日本は神仏習合だったことが判る。そんな恐ろしい女が卑弥呼なのである。

◯第一、中国の正史「三国志」が特記するほどの女性が卑弥呼なのである。「三国志」倭人条1986字は、卑弥呼を表現するために書かれたと言っても過言では無い。それ程、恐ろしい日本国の女王が卑弥呼だと言うことになる。

◯したがって、卑弥呼が歴史から抹殺されることなど、あり得ない。と言うか、歴史から抹殺できない存在が、邪馬台国の女王、卑弥呼なのである。ところが、日本の歴史の中で、私たち日本人は、なかなか卑弥呼の存在を確認できない。

◯それはどうしてかと言うと、日本の史書が、故意に、卑弥呼の存在を隠そうとしているからであることが判る。普通なら、抹殺されば済むことなのだが、その存在があまりに大き過ぎて、隠すことができない。それで、誤魔化そうとするわけである。

◯良く、歴史は勝者の歴史であると言われる。ある意味、卑弥呼は敗者であって、歴史から抹殺され掛けた。ただ、それが出来なかったので、歴史の片隅に残っている。それが「古事記」や「日本書紀」が記録する日本の歴史なのである。

◯古代に、そんなに大きな存在の女性を探すと、第一に、天照大御神である。しかし、天照大御神は天上界の女性だから、卑弥呼には該当しない。ただ、その面影は天照大御神に見ることはできる。

◯次に考えられるのは神功皇后だろう。歴史上、神功皇后の存在は大きい。それに「日本書紀」では、さり気なく、「三国志」の記録を載せていることからも判るように、「日本書紀」の編者は、卑弥呼は神功皇后だと考えていたことが判る。

◯しかし、「三国志」が記録する卑弥呼は、その状況から鑑みて、どうしても大山祇神とするしかない。と言うのは、卑弥呼は邪馬台国の女王だからである。邪馬台国の風景が、

  うねびやま=霧島山(1700m)
  かぐやま=桜島山(1111m)
  みみなしやま=開聞岳( 924m)

である以上、卑弥呼の現住所は、

  鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島大字長濱

となるしかない。そのことは、大和国一宮と大和三山との関係性が証明してくれる。

◯その硫黄島に存在するのが卑弥呼であれば、卑弥呼は大山祇神だと言うことになる。何故なら、日本最古の史書とされる「古事記」や「日本書紀」がそのように記録しているからである。

◯卑弥呼が大山祇神であることの意義は大きい。何故なら、「古事記」や「日本書紀」に拠れば、大山祇神の子供が木花之佐久夜毘売だからである。木花之佐久夜毘売は、天孫降臨の尊、彦火瓊々杵尊と結婚して、天皇家の祖先となった。

◯それが卑弥呼の正体である。つまり、卑弥呼は大山祇神であって、木花之佐久夜毘売の親であり、ある意味、日本の国母にも相当する存在であることが判る。歯切れの悪い表現だが、それは、日本はもともと母系社会だったのだから、国母の概念が父系社会とは違うからである。

◯日本の歴史が父系社会として語られる限り、卑弥呼の正体は隠すしか無いわけである。それが「古事記」や「日本書紀」が語る日本の歴史である。しかし、日本の社会は、もともと、母系社会であったことは、間違いない。つまり、記録そのものに問題がある。