卑弥呼の鬼道 | 古代文化研究所:第2室

古代文化研究所:第2室

ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯前回、ブログ『卑弥呼の正体』を書いて、「古事記」と「日本書紀」は、卑弥呼を大山祇神だと規定していることを案内した。また、大和国一宮が大神神社であることを考えれば、卑弥呼は大物主大神であって、出雲神であることが判る。

◯つまり、現代に於いても、卑弥呼は日本中に齋き祀られていることが判る。一宮だけを例に挙げても、次のようになる。( )内は御祭神。

  大和国一宮:大神神社(大物主大神)

  三河国一宮:砥鹿神社(大己貴命)

  遠江国一宮:小國神社(大己貴命)

  駿河国一宮:富士山本宮浅間大社(木花之佐久夜毘売命)

  伊豆国一宮:三嶋大社(大山祇命)  

  甲斐国一宮:浅間神社(木花開耶姫命)

  武蔵国一宮:氷川神社(大己貴命)

  近江国一宮:建部神社(大己貴命)
  信濃国一宮:諏訪大社(建御名方神)
  能登国一宮:気多大社(大己貴命)
  越中国一宮:気多大社(大己貴命)
  丹波国一宮:出雲大神宮(大国主神)
  出雲国一宮:出雲大社(大国主大神)
  播磨国一宮:伊和神社(大己貴命)
  伊予国一宮:大山祇神社(大山積神)
  日向国一宮:都農神社(大己貴命)
◯判るように、日本のほぼ半分の一宮神社は卑弥呼を齋き祀っている。まだ他にも気になるところが存在するけれども、はっきりしているものだけを掲載した。また、木花之佐久夜毘売命や木花開耶姫命は、直接では無いけれども、親が大山祇命なので、入れてある。
◯ただ、これが全てではないことにも、十分、留意する必要がある。そのことを教えてくれるのが、「三国志」が記録する『卑弥呼の鬼道』である。考古学者先生は、『卑弥呼の鬼道』をシャーマニズムだとおっしゃる。
◯その割には、先日の、『NHKスペシャル:古代史ミステリー 第1集 邪馬台国の謎に迫る』で、卑弥呼がグローバル社会に生きていたと紹介している。つまり、三世紀の倭国はグローバル社会の只中にあったことが判る。そんな社会をシャーマニズムで生き抜くことは無理だろう。
◯卑弥呼の鬼道が何であるかは、卑弥呼の現住所が教えてくれる。繰り返すと、卑弥呼の現住所は、次のようになる。
  鹿児島県鹿児島郡三島村硫黄島大字長濱
◯当古代文化研究所は、これまで、6回、硫黄島を訪れ、このことについて、詳細な検証を加えている。
  ・2009年5月30日(土)
  ・2009年6月11日(木)
  ・2010年10月30日(土)・31日(日)
  ・2011年3月13日(日)から18日(金)
  ・2011年11月25日(金)から29日(火)
  ・2012年8月22日(水)
◯硫黄島を象徴するものは、何と言っても、硫黄岳(703m)だろう。小さな島の割には、何とも標高の高い山である。加えて、常時、白い噴煙を挙げている。何とも、不気味な島であり、山である。
◯さらに硫黄島を探索すると、硫黄島の風景を彩るものが硫黄島三岳であることを知る。それが次の山々になる。
  ・硫黄岳(703m)
  ・矢筈岳(349m)
  ・稲村岳(236m)
◯この硫黄島三岳と、まるで同じ風景が存在する。それが大峰三山になる。
  ・大峰山(山上ケ岳:1719m)
  ・大天井ケ岳(1438m)
  ・稲村ケ岳(1726m)
◯面白いことに、大峰三山の大天井ケ岳や稲村ケ岳の名を説明することは、誰にもできない。ところが、その名を、硫黄島ではきれいに説明できる。つまり、大峰三山の故郷は、実は硫黄島であることが判る。
◯さらにもっと興味深いことは、大峰山が日本修験道の起源とされることである。ウィキペディアフリー百科事典が案内する修験道は、次の通り。
      修験道

修験道(しゅげんどう)とは、古代日本において山岳信仰仏教密教)や道教九字切り)等の要素が混ざりながら成立した、日本独自の宗教・信仰形態。山へ籠もって厳しい修行を行うことで悟りを得ることを目的とする。仏教(密教)の一派として扱われて修験宗と表現されることもある。修験道の実践者を修験者または山伏という。

修験道は、飛鳥時代役小角(役行者)が創始したとされるが、役小角は伝説的な人物なので開祖に関する史実は不詳である。役小角は終生を在家のまま通したとの伝承から、開祖の遺風に拠って在家主義を貫いている。

著名な修験道場として、日本三大修験道場というものがある。開祖の役小角が修行した大峰山、福岡県英彦山は英彦山六峰という霊山が集中し松会という祭礼行事が行われた、そして3か所目は出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)である。

 

◯修験道は、役小角が大峰山で感得したものとされる。つまり、修験道は7世紀に大峰山から始まったとされる。しかし、大峰三山が硫黄島のものである以上、修験道そのものの始まりは硫黄島だとするしかない。

◯その時代も七世紀などではなくて、三世紀であると思われる。つまり、日本に仏教を導入したのが卑弥呼だと言うことになる。だから、卑弥呼は、現在でも、日本中に齋き祀られている。それが、「三国志」の記す『卑弥呼の鬼道』だと言うことになる。

◯「三国志」をものした陳寿は四川省南充市の人である。四川省は甘粛省とともに、チベットの入口でもある。つまり、中国でも、最も早く仏教が伝来している。その陳寿でさえ、仏教を『卑弥呼の鬼道』と表現していることに留意したい。

◯もちろん、当古代文化研究所は、これまで、三回、四川省を訪れ、峨眉山や楽山の大仏などにお参りを済ませている。また、陳寿の故郷である南充市にも訪問済みである。意外に、この辺り出身の著名文人は多い。たとえば、司馬相如がそうであり、李白や蘇軾がそうである。

◯誰も言及しないが、「三国志」で、卑弥呼の地位は頗る高い。それは、そのように、陳寿が卑弥呼を記録しているからに他ならない。先日、ブログ『陳寿の倭国観』で、そのことについては、次のように案内している。

  【原文】

  雖夷狄之邦,而俎豆之象存。中國失禮,求之四夷,猶信。

  【書き下し文】

  夷狄の邦と雖も、俎豆の象存す。中國禮を失し、之を四夷に求めるは、猶ほ信なり。

  【我が儘勝手な私訳】

  東夷は野蛮人の国ではあるけれども、そこにはしっかりとした礼儀作法を

  見ることができる。そういう礼儀作法は、中国ではすでに完全に失われて

  しまっている。そういうものを東夷に見ることは驚きである。これは本当

  の話である。

◯中国が正史で、このような文章を綴ること自体がまず、無い。それこそ、前代未聞のことである。陳寿は、それ程、高く、倭国を評価している。その倭国の女王が、卑弥呼であることは言うまでもない。

◯日本へ仏教を導入したのが卑弥呼である。中国でも、最先端の宗教が仏教だった。それをいち早く日本へもたらした。それが卑弥呼の正体でもある。何とも、卑弥呼は恐ろしい。