池田源太と本居宣長の大和三山 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯2022年12月18日から21日まで、第四回京都旅行をした。題して「大和三山・醍醐山参詣旅」と命名した。ここのところ、京都とその界隈を歩き続けている。その第四回が、今回の「大和三山・醍醐山参詣旅」で、ちょっと足を伸ばして奈良県橿原市に存在する大和三山を歩いて来た。今回が八回目の大和三山登頂になる。

  第一回  1992年3月28日
  第二回  2003年8月11日
  第三回  2005年5月10日
  第四回  2009年3月29日
  第五回  2010年4月3日
  第六回  2011年5月3日

  第七回  2017年9月5日

  第八回  2022年12月19日

◯当古代文化研究所では、長年、大和三山について、研究し、検証を加え続けている。万葉学者先生は、「万葉集」が記録する大和三山の記録の不思議について、説明するのに、悪戦苦闘なさっている。

◯ちなみに、当古代文化研究所が参考にしている万葉関係の本は、次のようなものである。

  「万葉集講義」山田孝雄:昭和三年(1928年):宝文館出版
  「万葉集新解」武田祐吉:昭和五年(1930年):山海堂出版部
  「万葉集全釈」鴻巣盛廣:昭和十年(1935年):廣文堂書店
  「萬葉集注釈」澤瀉久孝:昭和三十二年(1957年):中央公論社
  「万葉集私注」土屋文明:昭和三十一年(1956年):筑摩書房
  「萬葉集釈注」伊藤 博:平成七年(1995年):集英社

◯しかし、これらの書物は、何ら、大和三山について、解明できていない。当古代文化研究所では、そういうふうに判断し、独自の見地から、大和三山研究に乗り出したわけである。

◯それがある程度の成果を生み出したのが、ちょうど、1992年ころで、それで、実際、奈良県橿原市に存在する大和三山を踏破することとした。それが上記の、第1回大和三山登山になる。予想していた通り、奈良県橿原市に存在する大和三山、

  畝傍山(199.2m)
  香具山(152.4m)
  耳成山(139.7m)

は、レプリカであって、本物では無いことを確信した。

◯当時、当古代文化研究所は、42歳だったと記憶する。と言うのも、大和三山を丁寧に案内する書物に池田源太の「大和三山」(学生社:1972年刊)がある。もう50年も昔の書物だが、現在でも、最も良く大和三山を案内する名著である。

◯その池田源太は昭和十六年(1941年)に、42歳で、旧鴨公村別所に居住し、大和三山を眺めて暮らしている。つまり、当古代文化研究所と池田源太との間には、51年の時代差があることが判る。

◯その池田源太よりも、169年前の明和9年(1772年)3月に、この大和三山を訪れたのが本居宣長で、彼は、その記録を「菅笠日記」としてものしている。その当時、本居宣長も、偶然、42歳だった。何か因縁じみたものを感じる。

◯つまり、1772年に、42歳の眺めた大和三山を、1941年に同じ42歳の池田源太が眺め、1992年にも、同じ42歳の当古代文化研究所が眺めたことになる。当古代文化研究所と本居宣長との時代差は220年である。

◯三者三様の大和三山だが、その認識はまるで違うのに、驚く。最も寂しい大和三山認識が本居宣長であるのも、たいそう気になる。大家本居宣長であってさえも、その程度の大和三山認識でしかない。

◯池田源太の大和三山認識も、面白い。池田源太は歴史地誌が専門であるから、彼の大和三山認識は、本居宣長とは、随分と異なる。もともと、大和三山を最も良く記録しているのが「万葉集」なのである。

◯ところが、その本居宣長にしたところで、意外と、大和三山認識は的外れなところがあって、それを確認できたことが何とも面白かった。「菅笠日記」を読む限り、宣長は香具山だけ登って、畝傍山と耳成山には登っていない。せっかく、その麓を通ったにも関わらず。

◯判るように、宣長には、大和三山がどういう山であったか、さほど関心が無かったことが窺える。それに対して、池田源太は地誌としての大和三山を丁寧に検証してみせる。ただ、彼にはもともと、「万葉集」を通しての大和三山理解が無いので、そういう意味で、大和三山は奈良県橿原市のものだと信じて疑わない。

◯当古代文化研究所が初めて大和三山を訪れた1992年3月当時、当古代文化研究所はすでに、大和三山が本物では無いことを確信していた。それで、そのことを確認する作業が、大和三山登山であった。そして、間違いなく大和三山がレプリカであることを確認できた旅であった。

◯これまで、当古代文化研究所では、幾度となく、そういう検証を繰り返している。そのたびに、奈良県橿原市に存在する大和三山がレプリカであるとこを確認している。今回の大和三山登山も、そういう検証の一環である。

◯奈良県橿原市に存在する大和三山はレプリカに過ぎない。本物は、日向国にある、次の山々である。

  うねびやま=霧島山(1700m)
  かぐやま=桜島山(1111m)
  みみなしやま=開聞岳( 924m)

◯何故なら、畝傍山・香具山・耳成山の山名を、奈良県橿原市では説明できない。それが日向国ではきれいに説明できる。それは、もともと、大和三山が日向国のものだったからである。

◯加えて、「万葉集」の大和三山の表現には、奈良県橿原市の大和三山では説明できないものが幾つも出現する。それを、上記した万葉学者先生は、何とか説明しようと悪戦苦闘なさっている。しかし、それは無駄な努力と言うしかない。

◯もともと、日向国の大和三山を歌った和歌が、「万葉集」の大和三山和歌には混在している。そう考えると、きれいに説明できる。当古代文化研究所では、そのように考え、検証を加えてきた。結果、大和三山がレプリカであることを証明した。

◯ただ、大和三山が二つもあっては、何とも紛らわしい。それで、当古代文化研究所では、奈良県橿原市の大和三山を、そのまま大和三山とし、日向国の、本物の大和三山の方を、邪馬台国三山と呼ぶこととした。もちろん、そこが「三国志」の案内する邪馬台国であるからである。

◯そういう意味で、池田源太と本居宣長の業績は大きい。それを確認する意味でも、ここに『池田源太と本居宣長の大和三山』と題して、記録しておきたい。