藤原宮:大極殿跡 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯今回の大和三山周遊で参考とした『近鉄てくてくマップ:大和三山回遊コース』に拠れば、橿原神宮前駅から畝傍山山頂までが2335m、次に香具山山頂までが8191mとある。つまり、畝傍山山頂から香具山山頂までは、5856m歩いて来たことになる。

◯ただ、当古代文化研究所では、『近鉄てくてくマップ:大和三山回遊コース』をそのまま踏襲しているわけではない。見るべきものが違うので、別ルートを歩いている。しかし、おおよそ、『近鉄てくてくマップ:大和三山回遊コース』の距離数に近いので、それを参考に案内している。

◯その香具山から耳成山を目指した。途中で、天香山神社や畝尾坐健土安神社、興福寺(八釣山地蔵尊)などにお参りした後、やっと耳成山へ向かって歩き出した。香具山から耳成山へ向かう途中からは、大和三山、畝傍山・香具山・耳成山が、きれいに眺望される。

◯15分ほど歩くと、『藤原宮:大極殿跡』に到着する。この部分が、最も道が狭くて、車が多い。歩道が設けて無いので、十分車に注意して歩くことが必要である。『藤原宮:大極殿跡』は公園化されていて、トイレなども完備している。

◯橿原神宮前駅を出発したのは、朝の8時30分ほどだったが、『藤原宮:大極殿跡』では13時20分ほどだった。したがって、もう5時間近く歩いていることになる。さすがに疲れて来た。しかし、耳成山までは、まだ2kmくらいはある。頑張るしか無い。

◯奈良県の「奈良県景観資産」に、『大和三山が眺望できる藤原宮大極殿跡』案内があって、それには、次のようにあった。

      大和三山が眺望できる藤原宮大極殿跡

藤原京は日本史上最初の本格的な都です。平城京に遷都されるまで持統・文武・元明の三天皇が居住した16年間、日本の首都でした。藤原宮跡は、かつて藤原京の中心施設である「藤原宮」があった場所で、古来より和歌に詠まれている、大和三山(香具山[天香具山]・耳成山・畝傍山)に囲まれています。
 現在では敷地の各所にコスモスやハスが植栽されていて、色鮮やかな花園越しに、大和三山を眺めることができます。

 

◯別に橿原市のホームページに、次の案内があった。

      大極殿は日本最大の建物

大極殿は天皇が政治や儀式(ぎしき)をおこなう場で、まさに藤原宮の中心となる建物です。その大きさは正面45メートル、奥行21メートル、高さ25メートルと、当時、日本最大の建物だったのです。大極殿は大きさもさることながら、礎石建ちで瓦葺の屋根に朱塗りの柱と、非常に荘厳(そうごん)な建物だったでしょう。
この大極殿の前には、貴族や役人達が集まる朝堂院(ちょうどういん)があります。朝堂院は、12棟の瓦葺の建物が廷をはさんで向かい合って建ち並ぶ構造で、大極殿に近い建物ほど格の高い建物となっています。この朝堂院で、貴族や役人は位の高い順に整列し、儀式をおこなったのです。
また、大極殿の後ろには、天皇の住居である内裏(だいり)がありました。内裏の主要な部分は現在、醍醐池(だいごいけ)の下にあるため、どのような構造であったのかは分かっていません。しかし、内裏は瓦葺で荘厳な大極殿や朝堂院とは違い、これまでの宮殿と同じく、掘立柱建物(ほったてばしらたてもの。穴を掘ってその中に柱を建てた建物のこと)で屋根も檜皮葺(ひわだぶき。ヒノキの皮で葺いた屋根)だったのです。

なお、大極殿は、平城京に遷都(せんと)する時に、平城宮に移築されたといわれています。今、平城宮跡に復原されている第一次大極殿(だいいちじだいごくでん)がまさにその建物なのです。また、唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂(こうどう)は平城宮の東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)を移築し、鎌倉時代に改修したものです。平城宮の主要な建物は、平城京遷都の際に藤原宮から移築されたと考えられているので、唐招提寺の講堂はもともと藤原宮の朝集殿であったと考える説もあります。藤原宮跡には、大宮土壇(おおみやどだん)とその南に広がる野原しかありませんが、かつての姿を伝える建物は県内に存在し、私たちにその姿を教えてくれるのです。藤原宮跡の大宮土壇に立って、平城宮跡の大極殿から見た風景を想い起こすと、平城宮跡とはまた違った宮殿の姿が甦ってくるのではないでしょうか。

 

◯『藤原宮:大極殿跡』に立って、大和三山を眺めた。まさに、藤原宮は大和三山とともにある。それが実感される。その藤原宮を造営したのが第四十一代の持統天皇である。ちなみに、「古事記」は第三十三代の推古天皇で終わっており、「日本書紀」は第四十一代の持統天皇で終わっている。