池田源太「大和三山」 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯池田源太著「大和三山」と言う本がある。学生社から昭和47年(1972年)に発刊された本で、「大和三山」を案内する本としては、今でも、最高の史料ではないか。随分前に、古書店で手に入れ、愛読している。

◯その池田源太著「大和三山」のまえがきに、次の文章がある。

   そのうち、私は、橿原発掘を主宰していた末永雅雄さんの勧めで、橿原調査報告の、文献

  の部を担当することとなり、さらにまた、どうしてめぐり合わせか、橿原文庫に転出するこ

  ととなった。そして、偶然にも、藤原京址に近い旧鴨公村別所の古い農家を借りて住むこと

  になった。それは、昭和十六年の末で、太平洋戦争がはじまった直後のことで、私が京都か

  ら別所に移転したのは、期もせずして、疎開したことになった。それから、大和三山のあた

  りは、私の起居と共にある風物となったのである。

   大和では、冬でも、ひばりが鳴いていた。

◯今回の旅行で、2022年12月19日、当古代文化研究所は、『大和三山回遊コース』を歩く途中で、その別所を通っている。別所からは北に耳成山、東に香具山、西に畝傍山をきれいに眺めることができる。ちょうど、藤原京朱雀大路跡が存在するところになる。

◯これまで、池田源太著「大和三山」は、折に触れて、読み続けている。池田源太著「大和三山」自体は、今から五十二年も昔に書かれた本だが、今なお、史料としての価値は高い。それに、この五十年間、これを超える書物が存在しないと言うのが不思議でならない。

◯池田源太著「大和三山」に教わったことは多い。まず、表紙の写真が良い。この写真について、まえがきには、次のように載せる。

   本の最初に、大和三山を入れようということになった。私は、まだ、大和三山というもの

  さえ、はっきりとは、知らなかったのであるが、西田教授から「三輪神社のあたりに柿畠が

  ある。あの辺から、三山は、十分よく撮れる」という指示を受けて、写真師をつれ、編集幹

  部の京極さんという人と一緒に、大神神社に参詣して高みから西南を望むと、たしかに、葛

  城山を背景とした大和三山が、菜種の花の中に浮かび出ていた。いろいろな意味で、私はお

  どろいた。写真を撮ることに成功し、それは『国史通記』、初年級用の初めのところに、あ

  ざやかな色刷で入れられた。

◯正確には、池田源太著「大和三山」の表紙を飾る写真は、これではない。この風景は、現在の大美和の杜展望台あたりからの眺望であると思われる。当古代文化研究所は、このあたりを何度も歩いていて、そのことを確認している。

◯池田源太著「大和三山」の表紙の、正確な場所は、池田源太著「大和三山」のカバーの裏に、カバー写真について、次の記述がある。

   奈良・国鉄桜井線三輪駅付近の山辺の道の桃畠よりのぞむ大和三山。左端に香具山、

  中央に畝傍山、右端に耳成山が見える。

◯当古代文化研究所では、この桃畠も確認済みである。その話は、次のブログに書いている。

  ・テーマ「大和は国のまほろば」:ブログ『味酒 三輪山』

 

  ・テーマ「大和は国のまほろば」:ブログ『大和は国のまほろば』

 

◯さらに、池田源太著「大和三山」のカバー写真の裏表紙には、本薬師寺跡(橿原市木殿)からのぞむ畝傍山を載せている。当時の本薬師寺跡あたりの様子がよく判って、興味深い。

◯まさに、池田源太著「大和三山」は名著と言うしかない。五十年以上も経って、今なお、史料として耐え得る。そんな書物は、そうない。今なお、私たちに、多くのことを教えてくれる。

◯この大和国原から畝傍山・香具山・耳成山を望むと、昭和十六年に、ここに、四十二歳の池田源太が居て、同じ風景を眺めて居たかと思うこと自体が、何とも楽しい。今では、もう八十三年も昔の話である。改めて、池田源太を思い懐かしんだ。