義仲寺:義仲公墓(木曽塚) | 古代文化研究所:第2室

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○2022年11月30日に、大津の義仲寺を訪れ、芭蕉のお墓に詣でて来た。ここまで、ブログ『義仲寺』、『義仲寺案内』、『時雨れても道や曇らず月の影』、『旅に病で夢は枯野をかけ廻る』、『行春をあふみの人とおしみける』、『古池や蛙飛びこむ水の音』、『木曽殿と背中合せの寒さかな』と書き続けて来ている。

○今回案内するのは、『義仲寺:義仲公墓(木曽塚)』である。義仲寺で頂戴したパンフレットには、次のように載せる。

      義仲寺:義仲公墓(木曽塚)

  土壇の上に宝篋印塔をすえる。芭蕉翁は木曽塚ととなえた。

  義仲公の忌日「義仲忌」は、毎年一月の第三土曜日に営む。

      燧山(元禄二年)

    義仲の寝覚の山か月悲し  芭蕉

      無名庵にての作(元禄四年)

    木曽の情雪や生ぬく春の草  芭蕉

○義仲寺の本堂が朝日堂になる。本堂とはとても呼べないほどの、まるで小さなお堂が朝日堂である。義仲寺で頂戴したパンフレットには、次のように載せる。

      朝日堂

   義仲寺本堂で、本尊は木彫聖観世音菩薩。義仲公、義高公父子の

  木像を厨子に納める。義仲公、今井兼平、芭蕉翁、丈草諸位ほか

  合わせて三十三柱の位牌を安置する。現在の朝日堂は昭和五十四年

  (一九七九)十一月改築されたものである。

○また、義仲寺で頂戴したパンフレットには、義仲寺について、次のように載せる。

      義仲寺

   義仲寺は、大津市馬場一丁目にあり、旧東海道に沿っている。

  このあたり、古くは粟津ケ原といい、琵琶湖に面し、景勝の地

  であった。朝日将軍木曽義仲公の御墓所である。

   治承四年(一一八〇)、義仲公は信濃に平氏討伐の挙兵をし、

  寿永二年(一一八三)五月、北陸路に平氏の大軍を討ち破り、

  七月京都に入られた。翌寿永三年正月二十日(四月改元して元

  暦元年)、鎌倉の源頼朝の命を受けて都に上ってきた源範頼、

  義経の軍勢と戦い、利なく、この地で討ち死にされた。享年

  三十一歳。(以下略)

○したがって、義仲公の命日は正月二十日と言うことになる。朝日将軍義仲公は、たいへん格好良い武将として「平家物語」には描かれている。また薄幸の武人としても登場している。享年三十一歳は、あまりに若い。

○ただ、「平家物語」巻九、『木曽最期』は、あまりに名文として知られる。

  木曽左馬頭、其の日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾縅の

  鎧着て、鍬形打つたる甲の緒占め、いか物づくりの大太刀はき、

  石うちの矢の、其の日の戦に射て少々残つたるを、頭高に負ひな

  し、しげどうの弓持つて、きこゆる木曽の鬼葦毛といふ馬の、

  きはめてふとうたくましゐに、黄覆輪の鞍をいてぞ乗つたりける。

  あぶみふんばりたちあがり、大音声をあげて名のりけるは、

  「昔は聞きけんものを、木曽の冠者、今は見るらん、左馬頭兼

  伊豫守、朝日の将軍、源義仲ぞや。甲斐の一条次郎とこそ聞け。

  たがいによい敵ぞ。義仲討つて兵衛佐に見せよや。」とて、

  おめいてかく。

○朝日将軍木曽義仲は、何とも格好良い。それは最初から最期まで続く。だから、誰もが朝日将軍木曽義仲に憧れ、夢中になる。もちろん、芭蕉も其の中の一人である。