義仲寺:芭蕉翁墓 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

○2022年11月30日に、大津の義仲寺を訪れ、芭蕉のお墓に詣でて来た。ここまで、ブログ『義仲寺』、『義仲寺案内』、『時雨れても道や曇らず月の影』、『旅に病で夢は枯野をかけ廻る』、『行春をあふみの人とおしみける』、『古池や蛙飛びこむ水の音』、『木曽殿と背中合せの寒さかな』、『義仲寺:義仲公墓(木曽塚)』と書き続けて来ている。

○今回案内するのは、『義仲寺:芭蕉翁墓』である。義仲寺で頂戴したパンフレットには、次のように載せる。

      芭蕉翁墓

   芭蕉は元禄七年(一六九四)十月十二日午後四時ごろ、大阪の旅舎で

  亡くなられた。享年五十一歳。遺言に従って遺骸を義仲寺に葬るため、

  その夜、去来、其角、正秀ら門人十人、遺骸を守り、川舟に乗せて淀川

  を上り伏見に至り、十三日午後義仲寺に入る。十四日葬儀、深夜ここに

  埋葬した。門人ら焼香者八十人、会葬者三百余に及んだ。其角の「芭蕉

  翁終焉記」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。墓

  石の「芭蕉翁」の字は丈草の筆といわれる。

   芭蕉翁の忌日は「時雨忌」といい、当寺の年中行事で、現在は旧暦の

  気節に合わせて、毎年十一月の第二日曜日に営む。

 

○また、同じパンフレットには、無名庵について、次のように載せる。

      無名庵

   芭蕉翁が当所を訪れたのは貞享二年(一六八五)三月中旬、

  ついで同五年五月中旬滞在。元禄二年(一六八九)、奥の細道

  の旅の後、十二月に京都、大津に在り膳所で越年、いったん

  伊賀上野に帰り、三月中旬再び来訪、九月末まで滞在した。

   元禄四年(一六九一)春、無名庵の新庵落成。同年四月十八

  日から五月五日まで京都嵯峨の落柿舎に滞在、「嵯峨日記」を

  草す。六月二十五日から九月二十八日まで無名庵に滞在。

   伊勢の俳人又玄の有名な句「木曽殿と背中合せの寒さかな」

  は、同年九月十三日ごろ、又玄が無名庵に滞在中の翁を訪ね

  泊まったときの作。

   芭蕉翁は、元禄七年(一六九四)五月十一日最後の旅に江戸

  を出発、伊賀上野に帰郷。閏五月十八日膳所に入り、二十二日

  落柿舎へ。六月十五日京都から当庵に帰り、七月五日京都の去

  来宅に移る。七月中旬から九月八日まで伊賀上野に帰郷。八日

  伊賀上野を立ち、九日夕、大阪に着く。

 

○義仲寺は、町中の実に小さな寺である。と言うか、寺の体裁をなしていないほどの境内である。それなのに、二十の句碑と二つの歌碑が立ち並んでいる。まさに俳諧の寺と呼ぶにふさわしい雰囲気がある。

○寺前の道が旧東海道であるのにも、驚く。もともと義仲寺は大きな寺であった。そのことは、龍ケ岡俳人墓地が遥か彼方のところに存在することからも確認される。ここは義仲寺の寺領だったと言われるのだから。

○芭蕉や義仲が眠る寺にしては、少し、物足りない気がしてならない。ここにお参りする前に、比叡山無動谷道から裳立山にある紀貫之公墓にお参りして来た。紀貫之公のお墓は、鬱蒼とした森の中に存在した。なかなか人のお参りできないところに建っていた。

○そういう意味では、芭蕉のお墓は賑やかなところに建っている。何時でも、誰でも、お参りできる。どちらが良いのだろうか。ふと、そんなことを思った。