木曽殿と背中合せの寒さかな | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

○2022年11月30日に、大津の義仲寺にある芭蕉のお墓参りをした。もう一年以上も前の話である。それを未だに書いている。何とも情けない話である。しかし、丁寧にブログに記録しておきたい。それが後で大いに役立つ。そう信じて、毎日、ブログを書き綴っている。

○2023年12月末から、ブログ『旅に病で夢は枯野をかけ廻る』から、『行く春を近江の人と惜しみける』、『古池や蛙飛びこむ水の音』と続けて来たが、今回は、『木曽殿と背中合せの寒さかな』句の話になる。

○評論の神様、小林秀雄に、『平家物語』と題する小論が二つ存在する。一つは、「無常といふ事」(昭和17年:創元社刊)所収であり、もう一つは、「考えるヒント」(昭和39年:文芸春秋社刊)所収の文である。

○当古代文化研究所では、その小林秀雄の二つの『平家物語』小論について、すでに2009年ころに、詳細な検証を加えている。詳しくは、次のブログを参照されたい。

  ・テーマ「三島村・薪能「俊寛」」:ブログ『小林秀雄の「平家物語」』

 

  ・テーマ「義仲寺と幻住庵」:ブログ『小林秀雄の「平家物語」』

 

○この小林秀雄の二つの『平家物語』小論を読んでから、改めて島崎又玄の、
  木曽殿と背中合せの寒さかな

を読むと、この句が芭蕉のものだと言っても、少しも遜色ないことが判る。ただ、それはこの句が義仲寺の無名庵で詠まれたものであることを理解しない限り、句の楽しさは堪能できまい。

○芭蕉は、この義仲寺を何度も訪れ、終の住処をここに定めた。芭蕉ほどの男が故郷、伊賀上野を捨てて、この義仲寺を終の住処にするには、余程の覚悟が必要である。何が芭蕉をして、そうさせたか。誰も語ろうとはしない。

○墓の話をするのに、宗派は避けて通れない。芭蕉の生家が何宗であったか。これは大事な要件である。もちろん、当古代文化研究所では芭蕉の生家を訪れ、その菩提寺にもお参りしている。芭蕉の生家の菩提寺は、遍光山願成寺愛染院と言って、醍醐寺系列の真言宗である。

○それに対して、義仲寺は天台宗となっている。もともと真言宗の門徒であった芭蕉が、わざわざ、天台宗の寺のお墓に眠ることには、相当な抵抗があったのではないか。もっとも、芭蕉にとっては、そういうことはどうでも良いことだったのかも知れない。

○と言うのも、芭蕉の作品を読むと、芭蕉は、意外に、禅宗に通暁していることが判る。彼が憧れたのは、何処でも無い。間違いなく西湖で、杭州になる。西湖は杭州で最大の観光地だから、芭蕉もそれで西湖に憧れたと思われるかも知れない。

○しかし、芭蕉が生きた十七世紀に、観光名所など、存在しない。当時、盛んだったのは、物見遊山と決まっている。その物見遊山の代表的な場が中国では西湖だった。そういうことを誰も語らない。それは芭蕉をご存知無いからに他ならない。

○もちろん、当古代文化研究所では、これまで5回、杭州へ赴き、西湖を訪問している。西湖には、禅宗五山の霊隠寺と浄慈寺が存在する。もちろん、当古代文化研究所でも、それらの寺々には参詣済みである。

○しかし、芭蕉が西湖を知ったのは、禅宗に関してではあるまい。それは彼が中国文学に憧れていたからに他ならない。特に、白居易は西湖で多くの詩作をものしている。そういうことを知らないと、本当は、芭蕉の文学は語れない。

○芭蕉は、何とも正直な男であると、しみじみ思う。芭蕉が終の住処を義仲寺に選んだのは、そういうことである。本当は、中国浙江省の杭州、西湖の畔に葬って欲しかったが、それ叶わない願いである。それで選んだのが大津の義仲寺だったと言うことになる。

○そういう意味では、島崎又玄の、
  木曽殿と背中合せの寒さかな

は、芭蕉に実に似付かわしい。俳諧の三要素である

  挨拶

  切れ字

  季節

が申し分なく案内されているからである。

○確認していないが、小林秀雄も、間違いなく何度も義仲寺を訪れている。そうでないと小林秀雄の「平家物語」が成立しない。意外と、小林秀雄と言う男は誠実な男である。そんな気がしてならない。