古池や蛙飛びこむ水の音 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

○義仲寺の境内に存在する芭蕉句碑は次の三つだけである。
  行春をあふみの人とおしみける   芭蕉桃青
  古池や蛙飛びこむ水の音      芭蕉翁
  旅に病で夢は枯野をかけ廻る    芭蕉翁

○前々回、ブログ『旅に病で夢は枯野をかけ廻る』を書き、前回、『行春をあふみの人とおしみける』を案内したので、今回は、『古池や蛙飛びこむ水の音』句の案内になる。芭蕉の『古池や蛙飛びこむ水の音』句は有名で、ある意味、芭蕉俳諧の代表作ともなっている。

○そのことは、たとえば、岩波日本古典文学体系本「芭蕉句集」、『古池や蛙飛びこむ水の音』句の頭注に、次のように紹介されている。

      古池や蛙飛びこむ水のをと

貞享三年。『葛の松原』に、最初「蛙飛こむ水の音」という七五だけを得て、上五文字を案じていた時、傍らにいた其角が「山吹や」と上五を冠した。しかし芭蕉はとらないで、古池やと定めたという話が見える。支考が『俳諧十論』の「俳諧ノ伝」において、「古池の蛙に自己(芭蕉)の眼をひらきて、風雅の正道を見つけたらん」といって以来、この句は蕉風開眼の句として宣伝され、古注では種々附会の説が見えるが、むしろ即興的な句。

○また、その補注には、次のように載せる。

『葛の松原』に「芭蕉庵の翁、春を武江の北に閉給へば、雨静にして鳰の声ふかく、風やはらかにして花の落る㕝おそし。弥生も名残おしき比にやありけむ。蛙の飛こむ水の音しばしばならねば、言外の風情この筋にうかびて、蛙飛こむ水の音といへる七五は得給へりけり。晋子が傍に侍りて、山吹といふ五文字をかふむらしめむかと、をよづけ侍るに、唯古池とはさだまりぬ。しばらく論之、山吹といふ五文字は風流にしてはなやかなれど、古池といふ五文字は質素にして実也。実は古今の貫通なればならし(下略)。

○貞享3年(1686年)、芭蕉42歳のころの話である。そのころの芭蕉について、ウィキペディアフリー百科事典では、次のように案内している。

貞享元年(1684年)8月、芭蕉は『野ざらし紀行』の旅に出る。東海道を西へ向かい、伊賀・大和吉野山城美濃尾張・甲斐を廻った。再び伊賀に入って越年すると、木曽・甲斐を経て江戸に戻ったのは貞享2年(1685年)4月になった。これは元々美濃国大垣の木因に招かれて出発したものだが、前年に他界した母親の墓参をするため伊賀にも向かった。この旅には、門人の千里(粕谷甚四郎)が同行した。

途中の名古屋で、芭蕉は尾張の俳人らと座を同じくし、詠んだ歌仙5巻と追加6句が纏められ『冬の日』として刊行された。これは「芭蕉七部集」の第一とされる。この中で芭蕉は、日本や中国の架空の人物を含む古人を登場させ、その風狂さを題材にしながらも、従来の形式から脱皮した句を詠んだ。これゆえ、『冬の日』は「芭蕉開眼の書」とも呼ばれる。

野ざらし紀行から戻った芭蕉は、貞享3年(1686年)の春に芭蕉庵で催したの発句会で有名な

  古池や蛙飛びこむ水の音 (ふるいけや かはづとびこむ みずのおと) 『蛙合』

を詠んだ。和歌連歌の世界では「鳴く」ところに注意が及ぶ蛙の「飛ぶ」点に着目し、それを「動き」ではなく「静寂」を引き立てるために用いる詩情性は過去にない画期的なもので、芭蕉風(蕉風)俳諧を象徴する作品となった。

 

○それだけ、『古池や蛙飛びこむ水の音』句は、芭蕉風(蕉風)俳諧を象徴する作品として、知られるし、有名なのである。そしてこれが芭蕉俳諧の真髄ともされる。しかし、そういう芭蕉俳諧を本当に理解するためには、俳諧の歴史を知らない限り、理解されない。

○和歌の歴史を知らない人が、唐突に、芭蕉の句を学習したところで、芭蕉の真意を理解することは難しい。何事にも作法と言うものがある。作法に従わない限り、物事は理解することが難しい。真面目に芭蕉を理解しようとすれば、「万葉集」から読み始めるしかない。

○しかし、そんな読書ができるほど、現代人は暇ではない。もともと、俳諧は数奇者の嗜むものであって、生活に勤しむ人には理解できない世界のものである。そういう肝心のことを忘れて人は芭蕉を理解しようとする。それは到底、無理な話である。

○加えて、芭蕉は道士でもある。なおさら、芭蕉を理解することは難しい。芭蕉は中国に出掛けたことも無いのに、極めて中国思想に詳しい。それは、芭蕉が文学を通じて、中国思想を理解しているからに他ならない。

○芭蕉の句を読んで、芭蕉が道士であることが理解できないでは、芭蕉は理解できない。芭蕉は残念ながら、万人のものではない。俳諧と言う数寄者の世界に生きた男が芭蕉なのである。その深奥が中国思想にあることを理解できないでは、芭蕉を理解できたことにはならない。

○そういうものは、芭蕉の俳諧の端々に幾らでも出現する。当古代文化研究所では、そのために中国各地を歩いている。芭蕉はある時は会稽を語るし、またある時には西湖を物語る。洞庭湖も知らないし、廬山に登ったことも無い方が、芭蕉を理解することは厳しい。

○仕方が無いから、当古代文化研究所では、長江を遡り、重慶や成都まで出掛けているし、中国五岳全てに登って来ている。芭蕉の憧憬が道士にあったことは間違いない。老子の故郷は河南省周口市鹿邑县太清宫镇にあるし、荘子の故郷は、河南省商丘とも安徽省蒙城とも言われている。当古代文化研究所では、そういう老子や荘子の故郷も全て、訪問済みである。

○東京都江東区常磐に、芭蕉記念館があるし、伊賀上野にも、芭蕉翁記念館があり、山形市には山寺芭蕉記念館がある。もちろん、当古代文化研究所は、その全てを見学済みである。芭蕉理解も、なかなか大変である。