義仲寺案内 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

○昨日、義仲寺については、案内したばかりである。ただ、義仲寺はそんなに簡単に案内できるほどのものではない。前回、2010年に義仲寺へお参りした際には、18個ものブログをものしているくらいだから。

○もっとも、真面目に義仲寺について書くなら、相当数書けるが、ここで、義仲寺でそれ程、時間を掛ける余裕は無い。今日は2023年12月29日なのに、書いているブログは2022年11月30日のものなのだから。書きたいこと、書かなくてはならないことがどんどん貯まるばかりだから、正直、大変困っていいる。

○しかし、十二年振りに、折角、義仲寺を訪れたのである。いい加減にやり過ごすこともできない。義仲寺について、あるいは芭蕉について、ここでどうしても触れておきたいことがいくつかある。せめて、それくらいは書き残しておきたい。

○それで、今回は『義仲寺案内』と題して、義仲寺のあらましを述べてみたい。現在の義仲寺は町中の小さなお寺である。しかし、江戸時代は、相当大きなお寺であったことは、義仲寺でいただいた「義仲寺案内」や「義仲寺略誌」で確認することができる。

○また、義仲寺前の通りは、やっと車が交差できるほどの、たいへん狭い通りである。ところが「義仲寺案内」を見ると、この小さな通りが旧東海道だと言うのだから、驚く。東海道五十三次の53番目の宿場が大津宿となっている。逢坂山を越えれば、もう京都である。

○前回、ブログ『義仲寺』で案内したように、義仲寺と言えば、木曽義仲であり、松尾芭蕉だと言うことになる。まず、そういう義仲寺を代表するものを、最初に案内しておきたい。その後、詳細について、触れたい。

○義仲寺は天台宗のお寺だと言う。昔は三井寺に属していたらしい。もっとも、現在は、寺としては、あまりに小さい。境内は、いわゆる、猫の額ほどの広さしかない。なかなかここで仏道修行に励むことは厳しい気がする。

○その狭い境内には、句碑が所狭しと立ち並んでいる。その数は20個を超す。それだけでも、見所がある。そしてその奥、中心に位置するのが義仲公墓で、さらにその奥に芭蕉翁墓が存在する。義仲公墓の後ろが無名庵、義仲公墓の右手向かいに朝日堂、芭蕉墓の左向かいに翁堂が建つ。狭いので、見て回るのには、便利である。

○また、義仲公墓の手前に、小さな巴塚がある。別に、義仲寺の入り口右手には巴地蔵堂が建つ。巴御前が義仲寺を建てたとも「義仲寺案内」にはあった。