義仲寺 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

○義仲寺へお参りするのは、今回で、多分、4回目になるのではないか。前回、何時、参詣したかを確認したところ、2010年9月17日ことで、もう12年も昔のことになる。その時は義仲寺と幻住庵を訪れ、24個のブログを書いている。

  ・テーマ「義仲寺と幻住庵」:24個のブログ

 

○義仲寺前に、大津市教育委員会の建てた案内があって、それには以下のように記されていた。

    国指定史跡
      義仲寺境内
                    (大津市馬場一丁目)
   義仲寺の名は、源義仲を葬った塚のあるところからきていますが、
  室町時代末に、佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります。
   門を入ると左奥に、俳聖松尾芭蕉の墓と並んで、木曽義仲の供養塔

  が立っています。「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、

  芭蕉の門人又玄の作です。境内には、この句をはじめ、芭蕉の辞世の句

  「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの句碑があります。また、

  巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。
   昭和四二(一九六七)年一一月に国指定の史跡となりました。
                            大津市教育委員会
    平成四(一九九二)年三月

 

○2010年9月にお参りした際には、次のブログを書いている。

  ・テーマ「義仲寺と幻住庵」:ブログ『松尾芭蕉の御墓所~義仲寺~』

 

○インターネットで検索したら、次のページがヒットした。

      義仲寺

JR膳所駅・京阪電鉄膳所駅の北約300mにある寺院。義仲寺の名は、平家討伐の兵を挙げて都に入り、帰りに源頼朝軍に追われて粟津(あわづ)の地で壮烈な最期を遂げた木曽義仲(きそよしなか)(1154-84)をここに葬ったことに由来しています。近江守護であった佐々木六角が、室町時代末期に建立したといわれています。
 江戸時代中期までは木曽義仲を葬ったという小さな塚でしたが、周辺の美しい景観をこよなく愛した松尾芭蕉(1644-94)が度々訪れ、のちに芭蕉が大阪で亡くなったときは、生前の遺言によってここに墓が立てられたと言われています。
 境内には、芭蕉の辞世の句である「旅に病て夢は枯野をかけめぐる」など数多くの句碑が立ち、偉大な俳跡として多くの人が訪れます。このほか、本堂の朝日堂(ちょうじつどう)・翁堂(おきなどう)・無名庵(むみょうあん)・文庫などが立ち、境内全域が国の史跡に指定されています。

 

○別に、次のページもある。

      義仲寺

      木曽義仲・松尾芭蕉に触れる場所

境内全体が国の史跡に指定されたお寺。平安時代末期にこの地で死を遂げた木曽義仲を、側室であった巴御前が供養したことに由来しています。境内には、義仲を支えた巴御前の塚が残されています。

      松尾芭蕉と義仲寺

芭蕉は大坂の旅窓で逝去されましたが、義仲の大ファンであった芭蕉は「骸は木曽塚に送るべし」との遺言を残しており、義仲寺に墓を立てました。境内には芭蕉の句碑や史料館が残されており、多くの参拝客が訪れています。

      松尾芭蕉が愛した「無名庵」

元禄2年(1689年)、「おくの細道」の旅を終えた松尾芭蕉が、その年の末に過ごした場所です。その後も何度か滞在し、芭蕉を訪ねた伊勢の俳人・島崎又玄は「木曽殿と背中合わせの寒さかな」と詠んだと言われています。

      芭蕉翁の墓

彼の遺言通りに、木曽義仲の墓の右隣に松尾芭蕉の墓が建てられています。境内には、芭蕉の辞世の句である『旅に病んで 夢は枯野を かけ回る』をはじめとした数多くの句碑が。松尾芭蕉の歴史に触れることのできる数少ない観光スポットです。

 

○当古代文化研究所が、何度も義仲寺を訪れるのは、もちろん、芭蕉の墓参りにある。日本文学史上、芭蕉が行き着いた境地を知ることは、なかなか容易では無い。そのこと自体を自覚している人自体が少ない。それが残念である。

○上記の案内にしたところで、同様である。芭蕉辞世の句が、

  旅に病て夢は枯野をかけめぐる

であるはずが無い。そんなことも理解できないで、芭蕉を語ることはできない。

○当古代文化研究所では、長い間、芭蕉を負い続けている。意外に、芭蕉は誤解されている。と言うか、芭蕉は道士である。芭蕉の精神は思いの外、遠く深い。そんなに簡単に芭蕉は理解できない。それだから、何度も義仲寺へお参りしている。