無動寺:建立大師相応 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

○2022年11月30日、紀貫之墓へお参りするのに、坂本ケーブルの延暦寺駅から無動寺坂を下って行った。坂本ケーブルの延暦寺駅脇にある『無動寺参道』の石碑が案内しているように、本来、この道は無動寺への参詣道であることが判る。

○しかし、坂本ケーブルの延暦寺駅脇にある『無動寺参道』に建つのが、『大辨財天女』の扁額を掲げた石の鳥居であることに、またまた、驚く。此処は比叡山延暦寺の境内である。それなのに、このように、堂々、鳥居を建てているのだから。

○ここ比叡山では、神仏分離令など、無用なのであるに違いない。それはそうだろう。この国の歴史を遡れば、開闢以来、ずっと神仏習合だったことが確認されるのだから。十九世紀になって、唐突に、神仏分離令などを出されたところで、誰も承知しない。

○明治維新が宗教革命であったことを認識できている人は少ない。革命がさも新しい時代の幕開けであるかのような錯覚を思い描いてはならない。革命は拒絶の思想に他ならない。お陰で、どれ程の文化が失われたことか。

○日本の歴史は開闢以来、連綿と続いているところに、その特徴が見られる。そういうところは世界でも珍しい。その日本の歴史を支えて来た理念が神仏習合であることに気付いている人は少ない。ある人々は、それが神道だとおっしゃるけれども、それはどう考えても無理がある。

○逆に、仏教に育てられたのが神道であるような気がしてならない。そういう思想自体が中国から移入されたことにも、誰も気付いていない。日本では、神仏習合は日本のオリジナルのように喧伝されるが、中国を訪れると、実際、そうでは無いことが良く判る。

○当古代文化研究所は、そういうことを研究している。そのために、中国五岳の全てを踏破済みである。また、中国四大仏教名山にも、全て参詣済みである。もともと、神仏習合自体が中国で発生していることが確認できる。

○このことが比叡山では最も顕著である。それもそのはずで、そういう古い時代の仏教を日本で最も良く残しているところの一つが比叡山なのである。ただ、それは大峰山などに比べると、随分と新しいけれども。

○比叡山の参道で、最も色濃く、神仏習合を残しているのが、この無動寺への参詣道ではないか。とにかく、鳥居が多く建ち並んでいるのに、驚く。それは無動寺がそういう信仰を比叡山でも残しているところにある。

○それが建立大師相応が始めたとされる千日回峰行である。その聖地が比叡山南山の無動寺だと言うことになる。ウィキペディアフリー百科事典が案内する相応は、次の通り。

      相応(僧)

相応(そうおう、天長8年(831年) - 延喜18年11月3日918年12月8日))は、平安時代前期の天台宗。一般的には相応和尚(そうおうかしょう)と記述されている事が多い。建立大師(こんりゅうだいし)ともいう。

近江国浅井郡の人で、俗姓は櫟井氏。比叡山無動寺を開創。千日回峰行とされ、数々の霊験譚が伝えられている。なお、最澄の伝教大師、円仁の慈覚大師の諡号は、相応の奏請による。