拾得佚詩:喧靜各有路(拾佚6) | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

○項楚著「寒山詩註」は、寒山詩313作品に続けて、寒山佚詩12編を載せている。それはこれまでに全部訳した。引き続き、項楚著「寒山詩註」は、寒山詩に続けて、拾得詩57首と佚詩6首を載せている。どうせなら、全部を訳し終えたい。それで、拾得詩57首を訳してきた。それも終わったので、今回からは拾得佚詩6首の訳となる。今回は、その第6回で、『喧靜各有路(拾佚6)』になる。

  【原文】

      喧靜各有路(拾佚6)

    喧靜各有路   偶隨心所安   縦然在朝市   終不忘林巒

    四皓將衣拂   二疏能挂冠   牕前隱逸傳   毎日時三看

    靳尚那可論   屈原亦可歎   至今黄泉下   名及青雲端

    松牖見初月   花間禮古壇   何處論心懐   世上空漫漫

  【書き下し文】

    喧靜、各に路有り、

    偶、心に隨ひて安んずる所。

    縦然として朝市に在れば、

    終に林巒を忘れず。

    四皓は將に衣を拂はんとし、

    二疏は能く冠を挂く。

    牕前、隱逸の傳あり、

    毎日、時に三たび看る。

    靳尚、那ぞ論ずべき、

    屈原、亦た歎くべし。

    今、黄泉下に至るに、

    名は青雲の端に及ぶ。

    松牖に初月を見、

    花間に古壇を禮す。

    何れの處に心懐を論ぜん、

    世上、漫漫と空たり。

  【我が儘勝手な私訳】

    騒がしい所にも静かな所にも、それぞれに生き様があって、

    たまたま、そこが自分にとって安堵する場所となる。

    悄然として俗世に生活して居ると、そこに落ち着き、

    とうとう山奥に隠遁することを忘れてしまう。

    秦末、東園公・夏黄公・甪里先生・綺里季の四皓は戦乱の世を避けたし、

    漢の疏廣・疏受の二人は職を辞して下野した。

    深山の窓の前には、隠逸傳があって、

    毎日、折に触れて、何度もそれを読むのが楽しい。

    楚の大臣であった靳尚など、論ずる必要も無いが、

    楚から放逐された屈原は、当然、惜しむべき存在である。

    今、屈原はあの世にあると言うのに、

    その名は遥か、青雲九天の上まで届いている。

    松の木の立派な窓から八月一日の月を見、

    春、清明の季節には、古い祭壇にお参りする。

    何処で、こういう思いを伝えることが出来ようか、

    この世は、どう言ったところで、仮の宿りでしかないのだから。

○今回の『喧靜各有路(拾佚6)』詩は、項楚著「寒山詩註」が載せる詩の最後になる。これまで、寒山詩313作品を訳し、続けて、寒山佚詩12編を訳した。その後、拾得詩57首を訳し、さらに、拾得佚詩6首を訳した。

○都合、全部で、388首を訳したことになる。その全てがこれで終了した。そのことがまず、嬉しい。そういう意味で、今日、2022年6月16日は、何ともおめでたい日となった。

○テーマ「寒山詩」の最初のブログ『寒山詩』を書いたのが、2021年4月16日である。

  ・テーマ「寒山詩」:ブログ『寒山詩』

  寒山詩 | 古代文化研究所:第2室 (ameblo.jp)

○最初の寒山詩、『凡讀我詩者(001)』を訳したのは、2021年4月27日だった。

  ・テーマ「寒山詩」:ブログ『寒山詩:凡讀我詩者(001)』

  寒山詩:凡讀我詩者(001) | 古代文化研究所:第2室 (ameblo.jp)

○それが全部、完結した。そのことが何とも嬉しい。苦節、一年と二カ月ほど、何とも長かった。まさか、これ程早く、寒山詩を訳すとは、思ってもみなかった。年を取って、歩けなくなったら、寒山詩を訳そうと思っていたからである。

○それもこれも、コロナ過のお陰とするしかない。コロナ過で、中国へ行けなくなった。それで仕方なく寒山詩を訳すこととなった。何ともいい加減な動機である。それでも、完結できたことが’ありがたいし、嬉しい。

○つくづく、項楚に感謝申し上げるばかりである。2012年3月に、天台山國清寺へ参詣した際、「國清寺志」(丁天魁編:華東師範大学出版社:1995年刊)と「寒山詩註」(項楚著:中華書局2000年刊)とを買って帰った。時期が来れば、寒山詩を訳してみたいと思っていた。

○項楚著「寒山詩註」は、名著である。懇切丁寧な註は、中国知らず、仏教知らず、道教知らずの私には、必要不可欠の、何とも有り難いものだった。お陰で、この訳ができた。項楚著「寒山詩註」には、感謝しても、感謝し切れないものがある。

○とにかく、疲れたのも、事実である。毎日一つずつ訳して来たが、いつも順調だったわけでも無い。何度か挫折しかけた。それでも、何とか終えることができた。終わり良ければ総て良しとは、こういうことを言うのだろう。