司馬相如 | 古代文化研究所:第2室

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○いまどき、司馬相如と言ったところで、ご存じの無い方が多いに違いない。それに司馬相如の作品を知る人はもっと少ないのではないか。

○それでも、中国の文学史を考える上で、司馬相如を抜きに考えることは出来ない。それ程、偉大な文学者である割には、その人となり、作品が世に紹介されることは滅多に無い。案内されるのは、決まって簡単な人物像とその作品名のみであることが寂しい。

○ちなみに、日本のウィキペディアフリー百科事典が案内する司馬相如は、次の通り。

      司馬相如
   司馬 相如(しば しょうじょ、紀元前179年 - 紀元前117年)は、中国の前漢の頃の文章家である。
  蜀郡成都の人。字は長卿(ちょうけい)。名は、もと犬子(けんし)と言った。
   賦の名人として知られ、武帝に仕え、その才能を高く評価された。また妻である卓文君との恋愛も
  有名である。
  【略伝】:出仕
   司馬相如は、蜀郡の成都の裕福な家に生まれた。若い頃は、書物を読むことを好み、剣術を習って
  いた。もともと名は犬子であったが、成長後、戦国時代の趙の将軍である藺相如に憧れて、相如に改
  めた。
   前漢の当時の官僚体制では、入貲という、飢饉などの際にある一定の穀物やそれに相当する金銭を
  納めることで郎となることができた。そのため司馬相如もこの方法によって、郎となり景帝に仕えた。
  後、武騎常侍となった。しかし、景帝が文学を好まなかったこともあり、司馬相如はこの仕事に愛着
  を持っていなかった。
   ある時、景帝の同母弟の梁の孝王は景帝のもとを訪ねてきた際に、自分のもとにいる鄒陽・枚乗・
  荘忌(『漢書』では劉荘の諱を避けて嚴忌)などの当時の一流の文人・学者を連れて来ていた。司馬
  相如は彼等と出会い、孝王の客になろうと思いたった。そして、病を理由として官を辞して、景帝の
  もとを去り、梁へと向かった。司馬相如は梁で孝王の歓迎を受け、孝王の援助を受けて、先に述べた
  ような文人などと共に住むことが許された。なお、梁にいた期間に司馬相如の代表作である「子虚の
  賦」が書かれた。
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E7%9B%B8%E5%A6%82

○中国の百度百科が案内する司馬相如は、次の通り。

      司马相如(西汉文学家)
   司马相如(约公元前179年—前118年),字长卿,汉族,巴郡安汉县(今四川省南充市蓬安县)人,
  一说蜀郡(今四川成都)人,西汉辞赋家,中国文化史文学史上杰出的代表。
   景帝时为武骑常侍,因病免。工辞赋,其代表作品为《子虚赋》。作品词藻富丽,结构宏大,使他成
  为汉赋的代表作家,后人称之为赋圣和“辞宗”。他与卓文君的爱情故事也广为流传。鲁迅的《汉文学
  史纲要》中还把二人放在一个专节里加以评述,指出:“武帝时文人,赋莫若司马相如,文莫若司马迁。”
    中文名:司马相如  别名: 司马长卿  国籍: 中国   民族:汉族
    出生地:巴郡安汉(今蓬安),一说蜀郡  
    出生日期:约公元前179年  逝世日期: 约公元前118年
    职业: 文学家,诗人,辞赋家,文学创作
    主要成就: 汉赋四大家之一
    代表作品: 《子虚赋》,《上林赋》,《大人赋》,《长门赋》,《美人赋》等
    荣誉美称: 赋圣 曾任官职 武骑常侍、中郎将建节使
  【人物生平】
   :景帝时期
    原名司马长卿,因仰慕战国时的名相蔺相如而改名。司马相如出生于巴郡安汉(今四川省南充市蓬
  安县);另一说据司马迁的《史记·司马相如列传》记载,为蜀郡(今四川成都)(司马相如字长卿,
  蜀郡蓬州人也)。少年时代喜欢读书练剑,二十多岁时用钱换了个官职,做了汉景帝的武骑常侍,但这
  些并非其所好,因而有不遇知音之叹。
   :武帝赏识
   景帝不好辞赋,待梁孝王刘武来朝时,司马相如才得以结交邹阳、枚乘、庄忌等辞赋家。后来因病退
  职,前往梁地与这些志趣相投的文士共事,就在此时相如为梁王写了那篇著名的《子虚赋》 。景帝去
  世,汉武帝刘彻在位。刘彻看到《子虚赋》非常喜欢,以为是古人之作,叹息不能与作者同时代。当时
  侍奉刘彻的狗监(主管皇帝的猎犬)杨得意是蜀人,对刘彻说:“此赋是我的同乡司马相如所作。”刘
  彻惊喜之余马上召司马相如进京。司马相如向武帝表示说,“《子虚赋》写的只是诸侯王打猎的事,算
  不了什么,请允许我再作一篇天子打猎的赋”,这就是内容上与《子虚赋》相接的《上林赋》,不仅内
  容可以相衔接,且更有文采。此赋以“子虚”“乌有先生”“亡是公”为假托人物,设为问答,放手铺
  写,以维护国家统一、反对帝王奢侈为主旨,歌颂了统一大帝国无可比拟的形象,又对统治者有所讽
  谏,开创了汉代大赋的一个基本主题。此赋一出,司马相如被刘彻封为郎。
  http://baike.baidu.com/link?url=BoSe8oN4NWSx4xtxAvemdwfxfoysLQ6RMdRBh5-N16T0hPxJV39r_whMpQl2GpbcpQM__twPPPID5RQ67tBH8zu3qkjKmceoMgAk80Weyb7

○今回、四川省南充の陳寿の故郷を訪問するにあたって、いろいろと調べているうちに司馬相如の故郷が隣の蓬安県であることを知った。司馬相如(紀元前179年~紀元前117年)と陳寿(233年~297年)との間には、およそ350年もの時代差がある。ただ、この二人が隣町同士であったことは興味深い。当然、陳寿は司馬相如を知っていたし、間違いなく、陳寿は司馬相如に憧れたはずである。

○そういう意味で、司馬相如の故郷、蓬安県を訪れることにした。