史記:司馬相如列傳 | 古代文化研究所:第2室

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○前回、日本のウィキペディアフリー百科事典と中国の百度百科が案内する司馬相如を紹介した。何しろ、司馬相如(紀元前179年~紀元前117年)は、今から2200年も昔の人物なのである。現代では、司馬相如について、判っていることは極めて限定されたものである。

○その情報のルーツを探ると、司馬遷の「史記」『司馬相如列傳』と、「漢書」の『司馬相如傳』と司馬相如の『子虚賦』と『上林賦』くらいしか史料は存在しないことが判る。ここではそういうものを紹介して、司馬相如の人物像に迫りたい。

○今回案内するのは、司馬遷の「史記」『司馬相如列傳』である。長い文章なので、原文を紹介するくらいで済ませるしかない。

卷一百一十七 司馬相如列傳 第五十七
 司馬相如者,蜀郡成都人也,字長卿。少時好讀書,學擊劍,故其親名之曰犬子。相如既學,慕藺相如之為人,更名相如。以貲為郎,事孝景帝,為武騎常侍,非其好也。會景帝不好辭賦,是時梁孝王來朝,從遊說之士齊人鄒陽、淮陰枚乘、吳莊忌夫子之徒,相如見而說之,因病免,客游梁。梁孝王令與諸生同舍,相如得與諸生游士居數歲,乃著子虛之賦。
 會梁孝王卒,相如歸,而家貧,無以自業。素與臨邛令王吉相善,吉曰:「長卿久宦遊不遂,而來過我。」於是相如往,舍都亭。臨邛令繆為恭敬,日往朝相如。相如初尚見之,後稱病,使從者謝吉,吉愈益謹肅。臨邛中多富人,而卓王孫家僮八百人,程鄭亦數百人,二人乃相謂曰:「令有貴客,為具召之。」並召令。令既至,卓氏客以百數。至日中,謁司馬長卿,長卿謝病不能往,臨邛令不敢嘗食,自往迎相如。相如不得已,彊往,一坐盡傾。酒酣,臨邛令前奏琴曰:「竊聞長卿好之,原以自娛。」相如辭謝,為鼓一再行。是時卓王孫有女文君新寡,好音,故相如繆與令相重,而以琴心挑之。相如之臨邛,從車騎,雍容間雅甚都;及飲卓氏,弄琴,文君竊從戶窺之,心悅而好之,恐不得當也。既罷,相如乃使人重賜文君侍者通殷勤。文君夜亡奔相如,相如乃與馳歸成都。家居徒四壁立。卓王孫大怒曰:「女至不材,我不忍殺,不分一錢也。」人或謂王孫,王孫終不聽。文君久之不樂,曰:「長卿第俱如臨邛,從昆弟假貸猶足為生,何至自苦如此!」相如與俱之臨邛,盡賣其車騎,買一酒舍酤酒,而令文君當爐。相如身自著犢鼻褌,與保庸雜作,滌器於市中。卓王孫聞而恥之,為杜門不出。昆弟諸公更謂王孫曰:「有一男兩女,所不足者非財也。今文君已失身於司馬長卿,長卿故倦遊,雖貧,其人材足依也,且又令客,獨奈何相辱如此!」卓王孫不得已,分予文君僮百人,錢百萬,及其嫁時衣被財物。文君乃與相如歸成都,買田宅,為富人。
 居久之,蜀人楊得意為狗監,侍上。上讀子虛賦而善之,曰:「朕獨不得與此人同時哉!」得意曰:「臣邑人司馬相如自言為此賦。」上驚,乃召問相如。相如曰:「有是。然此乃諸侯之事,未足觀也。請為天子游獵賦,賦成奏之。」上許,令尚書給筆劄。相如以「子虛」,虛言也,為楚稱;「烏有先生」者,烏有此事也,為齊難;「無是公」者,無是人也,明天子之義。故空藉此三人為辭,以推天子諸侯之苑囿。其卒章歸之於節儉,因以風諫。奏之天子,天子大說。其辭曰:

○以下は、司馬相如の『子虚賦』と『上林賦』とを案内した話になるので略す。司馬遷の「史記」は、そういう意味では、なかなか面白い。それは屈原でも同様である。以前、屈原については、以下のブログで詳しく書いているので、参照されたい。
  ・書庫「長沙・汨羅」:ブログ『楚辞と屈原列伝』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/38046459.html

○屈原(紀元前340年~紀元前277年)も、司馬遷(紀元前145年~紀元前87年)にとっては、伝承の人物でしかない。そういう意味では、司馬相如(紀元前179年~紀元前117年)も、司馬遷には伝説の巨人だったのかも知れない。