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SIS日記

NPO法人SIS(シス)スタッフによるリレー形式の日記です。
「こころが動いたこと」や「共有したいささやかな出来事」など
スタッフの「想い」を定期的に更新していきます。
どうぞお楽しみに!

発達障碍について具体的に考える  〔哲学快談:発達障碍〕
 
 
 近頃、「発達障害」に関する話題が多い。
 
 NHKのEテレで折に触れ、特集を組んでいた。「大人の発達障碍」の特集だ。ある心療内科の診察室に青年と母親が訪れていた。(医師は、本田秀夫氏。信州大学教授。『発達障害~生きづらさを抱える少数派の「種族」たち』SB新書など著作多数。)
 
 その一場面に、(あぁっ、これだ)と思うことがあった。
 
 母親が、「いつの間にか(息子の)部屋がゴミだらけになってしまうんですよ」と医師に言い、青年が「ゴミじゃないんだよ」と母親に言う場面があったのだ。
 
 部屋に置かれているモノに対して、母は「ゴミ」と言い、息子は「ゴミじゃない」と言う。そこに、両者の認識の違いがある。ここだと思った。
 
 もっとも、おそらく診察回数を重ねてきただろう母親は本田医師の前でずいぶんとほぐれている様子で、「ゴミ」と口にする語感にさほどのトゲは無さそうだ。「ゴミじゃない」と言う息子も、たしなめ的な一押しのようにして話している。つまり、この三者のなかで発達障害をどうとらえ、どう生きるかはずいぶんとほぐれて来ているのだ。
 
 そうである(ほぐれている)にせよ、「ゴミ」を巡る認識の落差は、まるで焚き火の燃え滓のようにして燻っている。(これは、何だろう)と、私などは思う。
 
 「ゴミ」とは、「物の役に立たず、無い方がよいもの。または、つまらないもの」のことで、母親は息子が貯めているモノ(具体的にはわからないが)を「無い方がよい」「つまらない」と感じている。逆に息子は、「自分にとって必要で、手放したくない」と感じている。
 
  その違いは、何だろう。  (つづく・鮮)
無駄に見えても   〔哲学快談:発達障碍〕
 
 
  「ゴミ」とは、「物の役に立たず、無い方がよいもの。または、つまらないもの」のことだ。広辞苑で調べれば、こういう意味であるとされる。
 
 だが、それは最大公約数の意味であって、人によって、そのモノによって「ゴミ」になるとは限らない。
 
  状況が変わり利用法が見つかると、「ゴミ」ではなくなることもありうる。また、他の人にとっては役に立ち、その人にとっては「ゴミ」では無い、ということもありうる。
 
 つまり、別の利用法や利用できる人を見つけることで、「ゴミ」が「ゴミ」でなくなることになる。たとえば、ほかの何かを作るための原料として利用すれば、「ゴミ」は資源となる(リサイクルということになる)。
 
 そして、利用法を共有する場があれば、他の人と交換することができる。その交換行為自体がコミュニケーションを生み出す。
 
 いや、そもそも再利用とか交換とかしなくても、そのモノ自体に価値を見いだすこともあるだろうと思う。手触りなのか、モノが放つ光芒なのか、わからない。一期一会の思い出を宿すものなのか、本人以外によくわからない。
 
 しかし、本人はそのモノと交流している。手元に置きながら、対話をしている。それは、世間一般の有用性とは異なっているかもしれない。だから、広辞苑的な最大公約数の意味体系からははじき出されることになろう。
 
 ある意味体系からはじかれているが、本人のなかでは価値として存在するものは、いくらでもある。
 
  少し、具体的な話をしてみよう。ある子どもが、河原で石ころを拾っていた。取っ替え引っ替え、拾っていた。そのうち、その子なりの分け方をし始め、おしまいにはいくつかの石ころをポケットに入れて持ち帰ると言う。俄然、母親は制止する。「そんなモノ、捨てなさい!」
 
 子どもは、石ころに何を見いだしたのか、何に見立てたのか、何を感じたのか。それらすべてに、自らの感覚が動員され、対話がなされたのだ。そして、彼なりに特別なモノになった。「特別」とは、特段に格別ということだ。だから、とりわけ持ち帰りたくなったということだ。
 
  石ころに限らず、何でもいい。周りのモノから何かしらを見いだし、浸り、対話するプロセスの中に『自分』が籠もるのではないだろうか。一見、無駄のように見えたとしても。
「ひきこもり」とアノミー状態とを区別する
 
 
 もっと早くに紹介したかった新聞記事ですが、さまざまな事情で遅れました。川崎市登戸の殺傷事件一週間後の6月4日に掲載された「引きこもり 危険視やめて」というタイトルのインタビュー記事です。中日新聞朝刊、一面のトップ掲載ですから、この新聞社の並々ならぬ英断が窺えます。
 
 インタビューに応じているのは、25年間ひきこもり状態にある豊橋市の小崎悠哉さん(39)。実名で写真入りですから、この方も並々ならぬ決意です。
 
 まずは、スキャニングした記事に目を通していただければ小崎さんの主張がわかると思います。
 
 小崎さんは、川崎の事件のニュースを見ていた父親から、「おまえも引きこもってないで働けよ」と言われたとのこと。「おまえも」の「も」の部分に、父親を通した世間の感覚の一端が出ていると思います。
 
 小崎さんは、川崎殺傷事件の岩崎容疑者が伯母に「自分のことは自分でやっている。引きこもりとは何だ」と反発したということを知り、不本意ながら共感したと言います。
 
 岩崎容疑者が事件を引き起こした動機に共感したのでは全くなくて、引きこもりへのレッテル貼りへの反発に共感したのだと思います。
 
 川崎殺傷事件の動機などは、岩崎容疑者が直後に自殺したこともあって、よくわからないままですが、アノミー(無規範状態・自暴自棄)が介在しているように思えます。
 
 つまり、『ひきこもる』は、そのようなアノミーに陥らないがための営為であって、逆なのです。自己肯定への模索なのです。
 
 小崎さんは、イジメをきっかけに中学時代から引きこもった。アルバイトもしたが、うまくいかなかった。30代になって会社の面接を受けるも、経歴の空白時間を問題視され何十社も落とされた、と言います。いったい、どうすればいいのかと、アノミーに絡め取られてもおかしくなかったでしょう。それを、その寸前で踏みとどまったのが、『ひきこもる』ことだと思います。
 
 『ひきこもる』ことの意義と、アノミーとをきちんと区別することが大切だと思います。
 
 農水省元次官に殺害された英一郎氏は、家庭内暴力をふるい、アノミー状態であったかと思いますが、暴力の矛先はあくまで母親と父親でした。何が息子のアノミーを生み出したのかが分からない父親の恐怖感が拡大し、川崎事件によって息子に投影されたのではないかと思います。
 
 大阪教育大学付属池田小学校児童殺傷事件を引き起こした宅間守死刑囚は、引きこもりを経ることなく凶行に走りました。秋葉原殺傷事件を起こした加藤智大被告も同様です。
 
 小崎悠哉さんが経歴の空白時間を問題視され何十社も落とされ、一時は自殺ばかりを考えたことがあるということです。世間を恨んで、いつアノミー状態になってもおかしくなかったと思います。
 
 もう一度、言います。『ひきこもる』ことの意義と、アノミーとをきちんと区別することが大切だと思います。 (鮮)