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SIS日記

NPO法人SIS(シス)スタッフによるリレー形式の日記です。
「こころが動いたこと」や「共有したいささやかな出来事」など
スタッフの「想い」を定期的に更新していきます。
どうぞお楽しみに!

5.ナチズム・優生学とハンス・アスペルガー

      〔歴史のさんぽみち〕

さて、ハンス・アスペルガーの話題に戻る。
長い間、アスペルガーは、ナチスによる優生学思想に基づいて行われた、障害児を安楽死させる政策に抵抗した良心の医師として考えられていた。「自閉性精神病質」の子ども達を患者ではなくさまざまなことを教えてくれる「小さな教授たち」と呼んで尊重し、それぞれに合った思いやりのある支援や配慮,教育が必要だと考えていた。そしてガス室送りの対象にならないように、子どもたちを守ろうとした、などと……。(「医学界のオスカー・シンドラー」とも称された。シンドラーは、杉原千畝と並んで危険を顧みずにユダヤ人を救出した人物として知られている。映画「シンドラーのリスト参照」)

しかし、最近の研究発掘でアスペルガーには二面性があることが分かってきた。一つの面は、上記のように障害児を安楽死させることから防御することがあった。しかし、もう片方では別の一面があった。
当時、ナチスの民族浄化の名の下に多くの障害児たちを収容する「シュピーゲルグルンド児童施設」があった。ここは、表向きは児童施設であったが、裏では「役に立たない」障害児の子どもを薬物で安楽死させる役割を持っていた。そこに送られた子どもの診断書が発見された。診断書はアスペルガー自身の自筆によるものだった。
◆3歳男児「重度人格障害であり、シュピーゲルグルンド児童施設に送ることが望ましい」(3歳の子が重度人格障害?)
◆5歳女児エリザベート「ゆっくりなら話せる。比較的理解力あり。シュピーゲルグルンド児童施設に送るのは当然」(前半の記述と後半がかみ合わない)
◆1942年、マリア・グギング精神病院顧問となる。210人の子どもを一日で診察。そのうち35人を「教育不可能」としてシュピーゲルグルンド児童施設に送る。(35人全員が後に死亡)

アスペルガーは、現在わかっているだけでも45人の子どもをシュピーゲルグルンド児童施設に送っている。そのうち、37人が「肺炎」として死亡している。公表されていない子は、もっといるとされる。

「シュピーゲルグルンド児童施設」は、民族浄化の名の下に「役に立たない」障害児を「浄化」する施設であった。ここでは、計789人の子どもが「安楽死」している。死亡時の診断名はすべて「肺炎」であり、すべて薬殺である。

 

4.ナチスの「優生学」思想とアスペルガー 〔歴史のさんぽみち〕
 

1933年、ドイツでヒトラーによるナチ政権が誕生し、「優生学」思想が大手を振り始める。「遺伝病の子孫を予防するための法律」が議会で成立する。いわゆる「断種法」である。その趣旨は「次世代の健全な社会を実現するため、民族の身体に巣くう劣悪な遺伝子を排除する」ことにあった。そして、断種は本人・家族の同意を必要としない、つまり、「強制断種」を意味するものであった。

1939年9月、ナチ・ドイツはポーランドに侵攻する。すると、その月の29日にはコクボロフ精神病院に収容されていた二千三百余の患者が虐殺される。患者は、あらかじめ穴が掘られていた森に連れていかれ、そこでピストルで打たれ穴に落とされた。同様の方法で、シュベッツ、オビンスク、クルパルコフなどの精神病院で虐殺が行われた。また、「ガス自動車」に送り込んで殺害したティーゲンホーフ、コステン、バルタ、コジアン 精神病院がある。

それで、ここに私たちにとって馴染みのない地名の精神病院患者の虐殺例を列挙したのは他でもない。まず、国名はポーランドをはじめとして、ドイツ国内、オーストリアなどナチ圏内に併合された国々。方法は、銃殺、ガス室送り、薬殺など。そして、対象は精神病、障害者、それに自閉症の子どもたちにも及んだことだ。無論、ホロコースト虐殺など、ユダヤ人への人種抹殺犯罪が行われたことも忘れてはならない。それらの記録だけでも膨大なものとなり、今なお闇に閉ざされている面がある。

戦後の西ドイツ大統領となり、ナチスの犯罪を率直に認める有名な演説を行ったリヒャルト・ヴァイゼッカーの兄に神経外科医ヴィクトア・ヴァイゼッカーがいる。戦後、「ニュルンベルク国際軍事裁判」が連合国によって開かれ、12の関連裁判の一つとして「ニュルンベルク医師裁判」が行われた。ここで裁かれたのは、先述の医療施設犯罪とともに強制収容所で行われた人体実験などであった。その内容があまりに衝撃的であり、医学界において「ニュルンベルク・コード」という新薬の臨床試験をはじめとする臨床的な倫理規定が定められた。

驚くべきことに、ヴィクトア・ヴァイゼッカーは戦後のこの裁判を経た後に、「安楽死と人体実験」なる書物を著していて、次のように述べている。
「生命全体を救済するために、火傷を負った下肢だけを切断する場合があるように、民族全体を巣くうためには、一部の病んだ人間を抹殺することが必要な場合がある」と。

ナチの「優生学」思想がどのようなものであったかが、如実にわかる。


 

3.ハンス・アスペルガー、その人物像〔歴史のさんぽみち〕

 

ハンス・アスペルガー(1906-1980)は、オーストリア・ウィーンで生まれ育った。権威ある医者であったフランツ・ハンブルガーに見出され、小児科医として勤務したのもウィーンだ。
アスペルガーは、はじめ児童診療所に助手として配属された。当時の児童診療所は、子どもをベッドに縛りつけ、患者として扱うのが普通だった。ところが、アスペルガーが配属された診療所は子どもを自由に遊ばせ、「生活者」として見ていた。画期的だったのは、かんたんに病名をあてはめようとせず、子どもの無意識の行為すらもよく観察していた。また、週1回、スタッフが自由に意見を出し合う場があったことだ。

アスペルガーは、この児童診療所で何人かの子どもを診察し経過観察をした。そのなかで、何人かの特徴ある子の記録を残している。
A・「独特な計算をする少年」
 例えば、「47-15」という計算でこの少年は引かれる数の「47」からも引く数の「15」からも同じく「7」を引き、「40-8=32」と計算する。自分のやりやすいように、独特なやり方で計算をする。

B・「毒薬少年」
 極めて特殊な知識を持ち、それを使いこなす。この子は、毒物に関する膨大な知識を持ち、使いこなす。

アスペルガーは、この診療所在籍10年の間に薬200人の子どもの診察をした。そして、「周囲から手に負えないとされた子は、特殊領域が拡大し、非凡である。社会適応は難しいが、その非凡な才能は必ず将来役に立つ。医師には全身全霊を賭けて、これらの子どもたちに代わって声をあげる権利と義務がある」と述べたのである。

アスペルガーのこの発言は、この児童診療所の自由意見交流が、『その子の変えられる部分と変えられない部分を見つけ、どうすることが幸せで、その子の居場所となりうるか。一人一人の目標や夢をどのようにして実現するか』を目指していたことと合致している。