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SIS日記

NPO法人SIS(シス)スタッフによるリレー形式の日記です。
「こころが動いたこと」や「共有したいささやかな出来事」など
スタッフの「想い」を定期的に更新していきます。
どうぞお楽しみに!

〈強迫神経症〉をめぐって ②

          

〈強迫神経症〉には、「清潔」に囚われるあまりに手を洗う、消毒するなどを徹底しなければ気が済まないものもあれば、自分に関する行動・予定の把握を徹底しなければ気が済まないものもあり、佐藤二朗氏はこのタイプの「メモ癖」であったようです。

「確認強迫」と言われているようですが、社会における行動テンポが迅速で情報流通が肥大化する現代を反映していると言えます。確認し把握しなければならないという観念が大きくなって、常に目に見えるメモをしておかないと不安だとして過敏になり、日常生活を左右してしまうような症状です。

佐藤氏が出会ったカウンセラーの対応が氏にとって良かったというのは、どういうことでしょうか。カウンセラーが「クセを治したら、あなたのよい面もなくなるかもよ」と言ってくれた。氏は、「自分のマイナスな面ばかりを責めていた僕にとっては発想を変えてくれる言葉だった」という。気持ちがふっと楽になったという。

それは、こういうことだと思います。……自分に関わる未来を常に目に見えるかたちで定着しておかなければならない。でないと、不安でたまらない。それは、「引き算」の思考です。常に未来予測が先だっていて、そこから自分のあり方を「引き算」し、メモで埋めなければ不安でたまらない。
               
この時、未来予測というのは、主として社会や集団の予定、計画、あるいはルールや決まりであって、〈いま・現在の・自分の・感覚〉から出発するものではないでしょう。だから、足し算にならない。マイナスばかりが目に付き、縮こまってしまう。縮こまるから、メモを張り巡らせて「安心」のお札を貼り巡らすようにする。

この時、「クセを治したら、あなたのよい面もなくなるかもよ」とカウンセラーが言ってくれた。それは、佐藤氏を「足し算」思考へと背中を押してくれたと思います。メモは、記録にもなるから振り返りにも、思い出にもなるし、メモは要約してするのだから「要約力」になるし、何よりも未来への君の「意気込み」でもあるし、と。カウンセラーがそう言ったかどうかは別として、「足し算」へと目を向けさせてくれたのではないかと思います。

それから、話を半分も聞かないで「まぁ、考え過ぎだよ」と簡単に言ったのではなかったと思われます。じっくり耳を傾けた後でのことと思われます。佐藤氏は、自分の話をよく受け止め、聴いてくれた人物を感じ、それがためにその人の話を受け止めることができたのだと思います。

不登校・ひきこもりの対応についても、「引き算」から「足し算」への転換を考える時、参考になり得るのではないでしょうか。

〈強迫神経症〉をめぐって ①

               

ドラマ「ひきこもり先生」の番外編として、〈強迫神経症〉について考えてみます。今のところ、ドラマには直接出てきませんが、不登校・ひきこもり状態に少なからず関与することもあるので、ここで考えてみます。

〈強迫神経症〉は、とても時代を反映した症状でしょう。なぜと言うと……

〈強迫神経症〉の代表的な「清潔恐怖」による強迫症について……今日、「清潔」とされるものは、微に入り細に入り目に見えないレベルで語られる時代です。細菌、ウィルスの存在、空中に浮遊するダスト、極小のダニなどの存在、これらの存在に現代人はとても神経質になりました。それはひとえに、科学・技術と医学の進歩によるものです。

科学・技術と医学がまだ今日のように進歩していなかった時代、たとえば50年前、100年前のことを思い浮かべてみます。かつて「不潔」とされてきたものはほとんど目に見えるものでした。服や顔、手足の汚れは着替えたり、洗い落とせば「不潔」で無くなり、髪の毛に集るシラミは薬で駆除してきました。それ以上の「目に見えない」細菌、たとえば結核菌による肺結核などは「不治の病」とされたり、運悪く病気になったなどとして考えられてきました。

それが、近年の医学と科学・技術の格段の進歩によって、改善されてきました。これは、言ってみれば人間の現在状況と未来を予知し想像する能力が飛躍的に向上したということです。それが、冒頭に書いた「清潔」が微に入り細に入り目に見えないレベルで語られる時代になったことの内実です。
                  
ところが、普段の日常生活では、「目に見えない」ものはやはり目に見えません。私たち全員が医者で科学者ではないからです。そこに、「不潔」の観念だけが大きくなって日常に入り込む可能性が生じてきます。「不潔」の観念は、「怖れ」となって人を突き動かします。人は、「怖れ」を解消する為に行動しようとします。さっき手を洗ったばかりなのに、(ほんとうにしっかり洗えただろうか?)と思い出し、ゾッとして再び入念に洗い出す。それでも、(ほんとにいいの?)という疑問がしつこくつきまとう。こうして、「不潔」への観念が大きくなることと、それを除去した達成感や納得感との距離ができてしまう。ここに、「清潔強迫症」が入り込む余地が大きくなります。

さて、そこで不登校やひきこもりとの関連についてですが、学校に行かなくなった当初やひきこもり始めた初期には、当人自身が「まずいことをしてしまった!」という思いに駆られること、不全感に陥ることがあり、〈強迫神経症〉を呼び込むことがあります。事実、経験者の多くが〈強迫神経症〉の併発経験を語っています。

このことから、不登校・ひきこもりの問題と併行して〈強迫神経症〉の問題にも目を懲らして向き合っていく必要性があると思います。これについては、長くなるので稿をあらためたいと思います。
(つづく)
 

不登校・ひきこもり  「一歩一歩」

         

ドラマ「ひきこもり先生」の第1話で、STEPルーム(不登校支援教室)の副担当を受けることになった主人公・上島陽平が登校する朝、その背中に向けてスクールソーシャルワーカーの磯崎藍子が、「あなたの一歩が、子どもたちの一歩につながるのよ」という言葉が投げかけられます。

この「一歩」という言葉が、私などは気になります。「一歩」とは、どういう一歩のことなのでしょう。何を指して「一歩」と言うのでしょう。

細かいことですが……上島陽平が営む店の「焼き鳥」を食べて、「まずい!」と言う場面が2回ありました。1人は、食べてすぐ「まずい!」と吐き出しました。鶏肉を素材として炭火で焼いて、そんなことになるかなぁと。無愛想で、下手くそでという人物形象を作る為なのかも知れないけれど、どうかなぁと思ってしまいました。

ひょっとしたら、そういうところから「一歩」という言葉が使われているのかなと思ってしまう。つまり、「うまく社会とかかわること」を「一歩」として。そうすると、「死なないでいることで精一杯」なんていう状態は「ゼロ歩」になってしまう。

学校に行けないのも、ひきこもっているのも。「ゼロ歩」??