「居場所」に意味を持たせない……
『不登校新聞』という、その名も性格も内容もズバリと明確に一致した素晴らしい新聞があります。(全国不登校新聞社。月2回発行。E-mail:tokyou@futoko.org)
1月15日号一面は、周りからいじめられる体験から、『どういう子だと友だちができやすいか』を研究し、「性格を取りつくろうとした」青年の経験談が掲載されています。二面、三面では、「母親の気持ちが落ち着くとき」「不登校からの母親日記」などの親の目からの経験談や書籍紹介など。等々。
今回、とくに紹介したいのは、四面、不登校経験者で佐賀市の子どもの居場所「フリースペース ハッピービバーグ」スタッフである森田義也さんの論考です。
森田さんは、子どもたちには、学校でも家庭でもない「居場所が必要だ」と盛んに言われるようになっている。その居場所というのは、仲良く遊んですごし、学習支援もし、子どもの未来のためになると、ポジティブな効果を期待されているが、それらの『期待』に疑問を投げかけています。
『食事があるのに食べないし、勉強もしないし、みんなと遊ばないで、部屋の隅でひとり、ゲームをしている子がいたとします。まわりから観たらかわいそうで、どうにかしてやりたいと思うかもしれませんが、それがその子のできる「今」のすごし方であったりします。それでも「居ていい」のです。どうにかされる場所ではないはずです。貧しくても、みっともなくても、勉強ができなくても、人とうまく付き合えなくても。居ていい、生きていていい。』
森田さんは、居場所というのは単純に「居ていい場所」であって、それ以上の意味をつけたり、期待する必要はないと言います。
『それ以上の意味をつけたり、期待する必要はない』……「居場所」にかかわる森田さんの発言は、不登校やひきこもりの問題にとって、根本的な問題を投げかけています。
「ほらほら、一人でいないでみんなで○○したらどう?」とばかり言うとしたら、学校と変わらない『集団生活補完場所』ですね。「一人ぽっちで居る」という「今の姿」で判断され、働きかけられるわけですね。体罰教師のように強権的でなく、優しい『善意』からだとは思いますが、キミは《ゆっくりでいいから、人とつながって回復するんだよ》ということですね。出口をあらかじめ指定した「居場所」なんですね。
とくに、ひきこもりに関して、「社会的居場所が必要だ」として、単なる居場所をことさらに意味づけしたり、「就労体験」をステップを踏んで組んでみたり、どうにも首を傾げざるを得ない居場所への捉え方があります。
森田さんは、この論考の最後を次のように締めくくっています。
『ただ、居ていいとなったとき、そのすごし方を大事にされたときに、人は変わると言いたいところですが、それだと人を変えるために「居させる」人が出てくるので、やっぱり居場所には居る以外の意味はないと言っておきます。』
『ただ、居ていいとなったとき、そのすごし方を大事にされたときに、人は変わると言いたいところですが、それだと人を変えるために「居させる」人が出てくるので、やっぱり居場所には居る以外の意味はないと言っておきます。』
…………どうしても、人に働きかけたり、変わることを期待して先取りしたり、意味づけしたりする癖が抜けません。不登校も、ひきこもりも、そのことの過剰さからの退避だったはずが、いつまで、どこまで追いかけるの? ということではないでしょうか。(鮮)
