大事な思考を巡らす時、人はひきこもる ③ | SIS日記

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NPO法人SIS(シス)スタッフによるリレー形式の日記です。
「こころが動いたこと」や「共有したいささやかな出来事」など
スタッフの「想い」を定期的に更新していきます。
どうぞお楽しみに!

映画「ハンナ・アーレント」 
 
 
  アイヒマンをめぐる映画をいくつか取り上げてきました。今回こそは、テーマ『大事な思考を巡らす時、人はひきこもる』について正面から考えたいと思います。
 
 今回取り上げる映画は、「ハンナ・アーレント」です。なぜ、アイヒマンをめぐる映画がこういうタイトルになっているかと言うと、アイヒマンを裁くエルサレム裁判の、アーレントによる傍聴記並びにアイヒマン分析が一つの歴史的事件と言っても過言でないからです。
 
 まず、アーレントの人となり、それから事実の概略をを紹介します。
 
◆ハンナ・アーレント……1906-1975。ドイツに生まれたユダヤ人。後にナチスの迫害を逃れ、アメリカに亡命する。哲学者。ハイデガー、ヤスパースに師事する。「全体主義の起源」「人間の條件」など重要な著作があり、現在も読み継がれている。アーレントに敬意を表して命名された小惑星がある。
◆アーレントによるエルサレム裁判傍聴記……アーレントによるエルサレム裁判レポートが「ザ・ニューヨーカー」誌に連載された(1963年)。それは、アーレント自身が申し出たことだった。ところが、その初回掲載の直後からアーレントはユダヤ人社会からの轟々たる批判の的となり、論争を引き起こした。(その内容は後述)
◆エルサレム裁判自体が戦後15年経って潜伏していた元ナチスの大物(アイヒマン)を裁く歴史的事件であった。その過程で、それまで知られていなかったユダヤ人虐殺の全貌が明らかになった。そして、アーレントの裁判傍聴記と分析によって、あらためて戦争と罪と責任を考える機会を世界中が得た。
 
 さて、テーマの問題です。
 
 アーレントは、エルサレム裁判で見た男は、決して怪物的な悪の権化などでなく、凡庸で陳腐な男だった。だから、ナチスのユダヤ人大虐殺を行った根源的な悪というのは、考えることを放棄した凡庸な、我らと隣り合わせの人間が起こした。……こういう衝撃的なレポートを書いていたのです。
 
  「そんなはずがない!」という非難がアーレントに向けられました。あれほど(600万人と言われる)の虐殺が、極悪非道でなければ成し遂げられるわけがない。「我らと隣り合わせの人間が起こした」など、信じがたいというものでした。
 
 アーレントは、述べています。
 たとえば、これほどの虐殺をするのに良心の呵責や葛藤は無かったのかと問われて、これは自分に与えられた役目で仕事だった、(ナチスの)法に従っただけだ、と淡々と答える。自身の罪状が記された千六百点に及ぶ文書をきちんと読んで法廷に臨み、検察官が質問することに冷静に協力的に答えた。質問が簡単だったり、事実認定に不備があったりすると、事実関係の細部を言葉を費やして説明したりした。
 
 「自分の昇進におそろしく熱心だったことのほかに彼には何の動機もなかった。そうしてこの熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなかった。・・・言い古された表現を使うなら、彼は自分が何をしているのか分かっていなかっただけなのだ。」
 
 アーレントは、のちに著した「精神と生活」のなかで人間が人間として不可欠な「思考」について次のように述べています。
 
●「思考をするために本質的な前提として、現象の世界から退きこもることだけは、唯一必要なのである。」
 
●「あらゆる思考は〈立ち止まって考えること〉を必要とする。」
 
●「人間が思考の内部にいるときには、〈一者のなかの二者〉という状態において、自分がもう一人の自分と対話しているのである。」
 
  このアーレントの言葉は膨大な研究書のなかの一部を抜き書きしたものなので、私なりに理解した範囲で次に言い直してみます。
◎人間が本当に大事なことについて考えるときには、いま現在やっていることが出来なくなったり、上の空になったりする。いま進行していることの意味は何なのか、自分がそのことにかかわって良いのか、自分がかかわる意義は何だろうか、いったいどういう結果が生まれるのだろうか、また他者に何をもたらすのだろうか。現在進行形で実行している自分と、疑問をもっている自分と、どちらが本当なんだろうか。こういう、立ち止まりがなければ思考ではなく、たんなる処理でしかない
 
  アーレントの言葉、次回にまた考えてみましょう。少し、長くなりましたので。(鮮)