付録‥‥『自己表出』と『指示表出』 | SIS日記

SIS日記

NPO法人SIS(シス)スタッフによるリレー形式の日記です。
「こころが動いたこと」や「共有したいささやかな出来事」など
スタッフの「想い」を定期的に更新していきます。
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「閑さや 岩にしみ入る・・・」  
 
 
 閑さや 岩にしみ入る 蝉の声 (芭蕉)
 

 言わずと知れた芭蕉の有名な句。この句に、はじめて出会ったとする。いやいや、「俳句」なんていうものにも疎く、たしなみもないとする。そして、『指示表出』の側面からだけで読んだとする。どういうことになるか。その読み手のつぶやきはこうだろう。
 
『「閑か」と言ってるから、あまり音がしないのか。でも、セミが鳴いているみたいで、鳴き声が目立つんじゃない? 矛盾してない? それと、「岩にしみ入る」ってなんだよ。何がしみ入る? セミの声がだって? おかしいよぅ。ありえないじゃん。』
 
 言葉が、社会的な交通関係のなかで伝達可能であることが重要なことは言うまでもない。そのとき、言葉の指示性は、相手に明確に伝わる上で不可欠だ。指示性というのは、世界の万物のなかから特定の対象を区別し、提示するものだ。「蝉の声」というのは、カエルの声でも牛の声でもなく、あの甲高く響く「蝉の声」だ。「閑さ」というのは、街の雑踏でもなくネコの鳴き声も聞こえない、あらゆる音が動きを止めているような「閑さ」だ。こうして、指示性ある言葉は、幾多の可能性から選択され指示され、受け取り手の脳内にイメージを結ばせる。
 ところが、「岩にしみ入る」と来て、言葉の指示性にとつぜん穴が開いてしまう。ブラックホールみたいに見えなくなり、脳イメージが働かなくなる。「岩」なんだから、通常の物質は受け付けない。まして、蝉の声がしみて入っていくはずがない。
 
 しかし、このブラックホールのような指示性の陥没から、吹き出して来るものがある。それは、作者・芭蕉がこの場に立ち、まるごと受けとめ、感じ、こころを働かせて表出したものだ。世界が動きを止めたような静かさと、世界を穿つような蝉の声の響きとの不思議な矛盾のなかで、「岩にしみ入る」と言わざるを得ないようなこころの震えを表出させたのだ。
 
 だから、この「岩にしみ入る」こそがこの句に生命を吹き込んでいる。それこそは、『自己表出』であり、表現する動機であり、先であり、こころの働きの力こぶであり、練られ、彫られ、『指示表出』と編み合わされて世界に船出する。
 
 言葉は、『指示表出』としては誰にでも伝達可能な意味の共通性を目指し、『自己表出』としては表出者固有の用法を目指す。「岩にしみ入る」は、伝達における共通性を排して孤高に隠れたようでいながら、読み手の新鮮な驚きや共感を束ねて連帯をかちえている。
 
 優れた俳句は、作者自身のこころ打ち震える『自己表出』を紡ぎ出し、もって読み手のこころに響き、こころを誘い出し、深いところで連帯するのだ。(鮮)