しるそばのうそ日記 -2ページ目

キムタク マツケン ゲンマン。

指切りげんまん 嘘ついたら 針千本 飲~ます 指切った。
 
  指切りげんまんの歌。 そんなタイトルなのかは知らないが、日本人なら、一度は耳にしたことがあることであろう。
 
  この、どう聞いても不穏な歌詞、いろいろとしらべてみると、想像と寸分たがわず不穏だったわけなのだが、改めて、その不穏さを確認してみようかと思う。
 
  まずは『指切り』。 これは、もともと遊郭の遊女が、客への変わらぬ愛情を誓うために、小指を切り落としたことに由来しているらしい。
 
  次が『げんまん』。 これは、「げんこつで一万回殴る」の略であるらしい。 人間というのは、「なにが出るかな? なにが出るかな? はい! なさけない話! 略して『なさバナ』」みたいなノリで、他人を一万回も殴るのだ。
 
  最後に『針 千本飲ます』。 これは、そのまんま、針を千本飲ませるということだ。 時々、針を千本ではなく、魚のハリセンボンを飲ませるのだ、という人もいるが、特に根拠はないようだ。 ちなみに、ハリセンボンは食べると美味しいらしい。
 
  つまり、指切りげんまんの歌というのは
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


指を切り落として誓いを立て
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


裏切った際には
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


一万回殴り
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


針を千本も飲ませる。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


また

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

約束を守ったところで
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


指を落とすのは
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


決定である。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんだこりゃ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


むやみに約束などするべきではない。
 

 

 

 

 

 


ぼくの人生につづく。

 

 

 

 

 


 

 

 

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おさんぽびより。

  急に涼しいですな。 こう暑かったり涼しかったりすると、どうすごしていいのかわかりませんな。 みなさんは、体調など崩していませんか?
 
  とはいえ、汗が滝のように流れる暑さよりも、圧倒的にすごしやすいわけで、ちょいと散歩にでもくり出そうかな、なんて気分にもなるわけで……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


圧倒的散歩拒否。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  目の前には、さんぽを完全に拒否する、柴わんことおじいさん。 もうあきらめてしまったのか、おじいさんはリードを引っ張ることすらせずに、薄曇りの空をぼんやりと眺めている。 実は柴犬というのは、見た目の可愛らしさに反して、一般に飼われている犬種の中で、最も原種、つまり、狼に近いといわれている犬種で、気難しくて、飼いにくい一面があるらしい。
 
  わんこがその気になるまでこうしているのだろうか? そんなことを考えながら、わんことおじいさんをながめていると、向かいからやってきた、おばあさんと話し始めた。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


圧倒的強制帰宅。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  問答無用で、カートに乗せられる柴わんこ。 ふたりの手際を見ていると、おじいさんがわんことお散歩に行く → 帰ってこない → おばあさん迎えに行く → わんこをカートに乗せて、無事帰宅。 のコンボが日常になっているのではないか? ということをうかがわせるわけなのだが、とりあえず、カートに乗せられた柴わんこは、大変に楽しそうなので、よかったのではないかと、思う次第でございます。
 

 

 

 

 

 

 


ぼくの人生につづく。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

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なぜにそのかたち。

  このくそ暑いなか、道端にパトカーが止っている。 その前に、2台の車が止まっているところを見ると、どうやら、接触事故でもあったらしい。 ご苦労なことである。
 
  人の良さそうなおまわりさんが、書類になにやら書き込みながら、話を聞いている。 別に大きな事故だとは思えないし、滞りなく処理されていくのであろう。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ぼくはどうしても

気になってしまうのだ。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


このパトカー
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


悪者っぽくない?
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  これは、単純に見た目の問題なわけだが、この手の、ヘッドライトがつり上がった眼のように見える車は、パトカーには向かないように思えるのである。
 
  たとえば、どんなに人の良さそうなおまわりさんであっても、
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  こんなだったら、なにも相談する気にはならないだろう。

  そうであるならば、
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


このパトカーどうよ?
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  と、なるわけだ。 こんなパトカーは絶対に制限速度を守らないし(偏見)、一時停止もしない(間違い)。 それどころか、ボーリングのピンのように人をはねても、「ストラーイク!!」とかいって、げらげら笑っているに違いないのである(暴言)
 
  ぼくは、デザインというのは、すべて目的や、意味があるものだと思っている。 そんなぼくがデザインの話をする時に決まっていうのが、2丁のハサミの話だ。 目の前に、まったく同じ金属で作られた2丁のハサミがあるとする。 これらは、まったく同じ製法で作られているのに、片方はとてもよく切れて、もう片方は全然 切れない。 さて、この2丁のハサミの違いはなんであろうか? それは……
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


形が違う。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  その一点なのである。 『きちんと切れる形をしているかどうか?』これがデザインなのだ。 だからぼくは、機能美以外のデザインを、デザインとは認めない。 『かっこいいけど使いにくい』は、デザインが悪い商品の典型である。 その形をしているのに理由がないものを、デザインとは呼んではいけないのだ。 すべてのデザインには意味がある。 要は……
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


このパトカーから

降りてきたおまわりさんと
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


このパトカーから

降りてきたおまわりさん。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


どちらがきちんと

話を聞いてくれそうか?
 

 

 

 

 

 


  …… というのが、パトカーに求められるデザインだと思うのである。 とどのつまり、ぼくがなにを言いたいのかというと
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


このパトカー嫌い。
 

 

 

 

 

 


  …… ということにはなってしまうわけだが。
 

 

 

 

 

 


ぼくの人生につづく。
 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

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