近藤悠三 赤地金彩
近藤悠三先生は金の粉を乳鉢で2時間擦ります。
乳鉢は硬質ガラス製を使用しました。
陶製乳鉢で擦ると、乳鉢と乳棒が擦り減る際に生じるかもしれない微量な物質が金に混じることを避ける為です。
金の粉はナノ・レベルの超微粒子と成り、体積は収縮して量が少なくなります。
このようにして集めた金の粉に水を加えて絵具として赤絵の上に文様を描きます。
膠(にかわ)は使いません。膠を使うと線が伸びなく成ります。
それを700度で焼成すると、赤地が金と陶器の間の両面テープの役割を果して作品に定着します。
赤地の上の金彩は剥離することなく、永遠に金としてこの世に姿を留めます。
これが金彩と金箔の違いです。
中国明代の赤絵金襴手は金箔を膠で留めています。
剥げます。無くなります。
素焼を700度、染付で1270度、更に赤絵で800度焼成した作品の上に、金彩で絵付けをして700度で焼成します。
赤地金彩作品が生まれるまでには4回焼成の過程を経て、世の中に出現します。
近藤悠三先生は昭和60年(1985年)2月25日に83歳でご逝去されましたが、その作品は永遠に活き続けています。
現在、倉敷美観地区に在る「きび美ミュージアム」で開催されている「近藤悠三展」でお確かめください。
「近藤悠三展」倉敷にて開催
倉敷にて開催観地区に在る「きび美ミュージアム」にて「近藤悠三展」が開催されているニュースが本日2026年6月24日の山陽新聞に掲載されています。
近藤悠三先生と倉敷の係わりの始まりは、倉敷の文化人の集まりの中心人物であった医師の故・三橋玉見さんから始まります。
偶々、三橋玉見さんが京都・清水新道で近藤先生の作品に出会いその芸術に魅了され、是非とも地元倉敷のやきものの指導をお願いしたいと提案します。
都の洗練された美を地方にも取り入れたいと云う意識は伝統として日本文化の根底に流れています。
近藤悠三先生が昭和5年から昭和10年まで年期を限り指導に赴いたことは、後に河井寛次郎・濱田庄司・富本憲吉・バーナードリーチが相次いで倉敷を訪問し現在のように民藝の町・倉敷の文化として発展している事に繋がります。
I will never forget your kindness.
突然に伸びた黒い腕!
出張先のホテル・ロビーで荷造りをしていました。
一つ目がやっと終わったので、フロントに宅急便を依頼しようとした時にそれを待っていたかのように黒い腕が伸びてフロントまで運んでくれました。
唖然!
インドから来た見ず知らずの親子三人の来日観光客でした。
御礼を申し上げて、もう一つ荷造りに取り掛かろうとした時に、先程の親切なインド人がスマホをかざして歩み寄って来ました。
見ると翻訳アプリの画面が日本語表示されていました。
「息子に貴方のお手伝いをさせてください。彼の日本での想い出にお手伝いをさせてください。」と記されています。
それ程までに、おっしゃるのでしたら息子さんの想い出造りに甘えさせて戴くことにしてインド人親子と僕の三人で作業をしました。 早い。 三人ですると早い!
外国から来た他の旅行者もこのシーンを見ていました。
ロビーはフレンドリーな空気が流れていました。
自由で開かれたインド太平洋パートナーシップ
親切で結ばれたインド太平洋パートナーシップ
ありがとございました。




