「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将と姫の墓めぐり、中村一忠の墓の紹介です。
人物名 | 墓のある施設 | 住所 |
---|---|---|
中村一忠 | 感応寺 | 鳥取県米子市祇園町1丁目 |
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中村一忠の墓は感応寺にあります。
発見難易度★★☆☆☆
本堂の裏山にあります。
駐車場があります。
発見難易度★★☆☆☆
本堂の裏山にあります。
![くるまr](https://emoji.ameba.jp/img/user/na/namida-egao/88449.gif)
豊臣秀吉政権下三中老の1人、中村一氏の子・中村一忠
中村一忠(なかむらかずただ)は、豊臣秀吉政権下三中老の1人、中村一氏(なかむらかずうじ)の子です。
父・一氏は関ヶ原の戦いに際し、事前に徳川家康と会談し、東軍に付く事を決めますが、合戦直前に死去してしまいます。
一忠は父の意志を継ぎ東軍として参戦し、戦後、米子17万5,000石を与えられました。
米子騒動の後に早世、中村家は滅びる
米子入封時、一忠はまだ11歳と若年であったため、叔父・横田内膳正村詮(よこたないぜんのしょうむらあき)が後見役および家老として藩政を仕切りました。
吉川広家が着手したものの、未完であった米子城を完成させ、城下も整備し、米子藩発展のために尽力しました。
しかし、慶長8年(1603年)、一忠は近習の諫言に惑わされ、村詮を城中にて誅殺してしまいます。
村詮の子・横田主馬助らは飯山城に籠り対抗しますが、一忠は隣国の堀尾吉晴に助勢を求め、横田一族を滅ぼしてしまいました。
それから6年後の慶長14年(1609年)、一忠は 20歳の若さで急死してしまいます。
一忠には子が無かったため、中村家は所領没収の上、断絶となってしまいました。
法名は青龍院殿一融源心大居士。
現在の墓は昭和34年(1959年)に再建されたものです。
感応寺山門。
本堂。
中村一忠の墓へ。
中村一忠の墓全景。
中村一忠の墓。昭和34年に再建されたものです。
側面には殉死した小姓の法名が刻まれています。
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