武将と姫の墓 | 横田内膳正村詮の墓 - 妙興寺! 米子藩のために尽すも誅殺される! | 地図付 | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将と姫の墓めぐり、横田村詮の墓の紹介です。

 

人物名 墓のある施設 住所
横田村詮 妙興寺 鳥取県米子市寺町

 

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横田村詮の墓は妙興寺にあります。
発見難易度★★☆☆☆
墓石が新しくなってました。

くるまr駐車場があります。


三好一族の横田村詮
横田内膳正村詮(よこたないぜんのしょうむらあき)は、三好一族の出で、はじめ三好康長(みよしやすなが)に仕えました。
三好家没落後、天正11年(1583年)に羽柴秀吉旗下の中村一氏(なかむらかずうじ)に仕えます。
一氏は村詮を厚遇し、妹を嫁がせ、身内として重用しました。

米子藩発展のために尽力するも藩主・中村一忠に誅殺される
慶長5年(1600年)、中村一氏は関ヶ原が始まる前に死去。
子の中村一忠(なかむらかずただ)が東軍として参戦し、戦後、米子17万5,000石を与えられます。
村詮は一忠の後見役および家老として6,000石取りとなります。
村詮は、吉川広家が着手したものの、未完であった米子城を完成させ、城下も整備し、米子藩発展のために尽力しました。
しかし、慶長8年(1603年)、まだ15歳と若い藩主一忠は、村詮を妬む近習の諫言に惑わされ、村詮を城中にて誅殺してしまいました。
享年52歳。

その報を受けた村詮の子・横田主馬助は、一族や家臣、客将の柳生宗章らとともに米子城に隣接する飯山城に籠もりました。
一忠は隣国の堀尾吉晴に援軍を求めたため、城を囲む大軍は一気に膨れ上がり、衆寡敵せず横田一族は滅亡しました。

 

妙興寺山門。

 

 

本堂。

 

 

横田内膳の墓。残念ながら墓石が一部新しくなってました。

 

 

法名。

 

 

側面に刻まれた没年月日。

 

 

内膳の子・横田主馬助らが籠った飯山城(左)と米子城(右)。

 

 

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