「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将と姫の墓めぐり、濃姫の墓の紹介です。
人物名 | 墓のある施設 | 住所 |
---|---|---|
濃姫 | 大徳寺 総見院 | 京都府京都市北区紫野大徳寺町59 |
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濃姫の墓は大徳寺 総見院にあります。
発見難易度★★★☆☆
※通常非公開。
秋季などに特別公開されます。
有料駐車場があります。
発見難易度★★★☆☆
※通常非公開。
秋季などに特別公開されます。
![くるまr](https://emoji.ameba.jp/img/user/na/namida-egao/88449.gif)
信長に嫁いだ後の消息が分からない濃姫
濃姫は織田信長の正室です。
父は斎藤道三。
天文18年(1549年)に織田信長に嫁ぎました。
…が、濃姫のその後は全く分かっていません。
信長の一級史料「信長公記」にも記載がありません。
また、信長との間には子もありませんでした。
濃姫のその後について、父の斎藤道三が討死した後に斉藤家へ戻った。 織田家で早世した。あるいは本能寺変の際、薙刀を振るって戦った。等々、諸説言われていますが、濃姫と断定出来る人物の史料は一切残っていません。
残ってはいませんが、「氏郷記」に記された人物「信長公御台」や、「織田信雄分限帳」に記された人物「安土殿」が濃姫の事ではないかとも言われています。
それらの書はいずれも本能寺の変後を記していますので、だとすると濃姫は信長よりも長く生きたことになります。
羽柴秀吉が後継者としての力を見せつけた大徳寺の大法要
大徳寺は今でも26の塔頭(たっちゅう)が建ち並ぶ大寺院です。
濃姫の墓はその塔頭の一つである総見院にあります。
羽柴秀吉は信長の死後100日後に大徳寺にて大法要を行い、その後敷地内に信長の菩提寺総見院を建立しました。
総見院には信長の墓をはじめ一族の墓があります。
その他、織田信長公坐像、堀秀政寄進の鐘楼、加藤清正が朝鮮から持ち帰ったとされる井戸などが残っています。
寺は明治の廃仏棄釈により荒廃し、寺宝は消失してしまいましたが、大正になって再建されました。
山門。
堀秀政寄進の鐘楼。
本堂。
加藤清正が朝鮮から持ち帰った掘り抜き井戸。
ワビスケ。秀吉が千利休から譲り受け植えたもの。
秀雄(手前)から信好(奥)まで、ずらりと並ぶ織田一族の墓。
濃姫の墓。
逆側から。
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