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鍵屋の辻の紹介です。
鍵屋の辻での決闘は、日本三大仇討ちの一つと言われています。
古戦場名 | ゆかりの武将 | 住所 |
---|---|---|
鍵屋の辻 | 渡辺数馬、荒木又右衛門、河合又五郎 | 三重県伊賀市小田町 |
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旗本vs外様大名の問題
寛永7年(1630年)7月11日、岡山藩士・河合又五郎が同僚の渡辺源太夫を殺害し、逐電します。
岡山藩主・池田忠雄(ただかつ)は又五郎の行方を捜索させ、江戸の直参旗本・安藤次右衛門のもとで匿われていることを突き止めます。
忠雄は引渡しを求めますが、次右衛門はかたくなにそれを拒みました。
池田家と安藤家の確執は天正12年(1584年)の長久手の戦いに端を発し、太平の世になってからも続いたのです。
また、この事件は、家同士の対立では収まらず、幕府旗本vs外様大名の地位の問題でもありました。
幕府は事態を憂慮し、旗本・安藤次右衛門を謹慎、当事者・河合又五郎を江戸から追放処分とすることで幕引きを図りました。
荒木又右衛門の助太刀
幕府の判定に納得のいかない池田忠雄は、渡辺源太夫の兄・渡辺数馬(かずま)に上意討ちの許可を与えました。
藩主の許しを得た数馬は、姉婿で剣豪として名の知れた大和郡山(やまとこおりやま)藩剣術師範の荒木又右衛門(あらきまたえもん)に助太刀をもとめます。
荒木又右衛門は柳生新陰流の使い手で、定かではありませんが柳生十兵衛の高弟であったとも言われています。
決闘鍵屋の辻
数馬・又右衛門一行は、仇敵・又五郎を探して諸国を行脚し、ついに河合又五郎の居所を突き止めます。
そして、寛永11年(1634年)11月7日、伊賀上野城下の西のはずれの鍵屋の辻(かぎやのつじ)にある茶屋・萬屋で又五郎らを待ち伏せしました。
数馬方は、数馬の他、荒木又右衛門、森孫右衛門、岡本武右衛門の四人。
対して河合又五郎方は11人であったそうです。
早朝、鍵屋の辻に差し掛かった又五郎一行に立ちはだかった数馬たちは仇討ちの意を伝えて斬りかかり、両者入り乱れての死闘となりました。
数時間の後、数馬は仇敵・河合又五郎を見事討ち取り本懐を遂げたばかりか、外様大名・池田家の面目も保つ事が出来ました。
人数の差にもかかわらず、又五郎を討ち取ることが出来たのは、荒木又右衛門の活躍があったからでしょう。
なお、荒木又右衛門36人斬りの逸話が残りますが、史実ではありません。
検視を行った伊賀上野藩・藤堂家は渡辺数馬、荒木又右衛門らの武勇を称え、河合又五郎らの霊はこねんごろに弔ったといいます。
現在の鍵屋の辻
現在、鍵屋の辻付近は開発され、当時の街道っぽさはありません。
街道の名残として、文政11年(1828年)の「ひだりなら道、みぎいせみち」の道標があるぐらいです。
鍵屋の辻には、「鍵屋の辻」の碑と数馬らが待ち伏せた茶屋・萬屋を模して建てられた数馬茶屋が建っています。
「ひだりなら道、みぎいせみち」の道標。文政11年(1828年)のものです。
日本三大仇討ち
建久4年(1193年)の曾我兄弟の仇討ち、寛永11年(1634年)鍵屋の辻の仇討ち、元禄15年(1703年)の赤穂浪士の討ち入りが日本三大仇討ちとされています。
それらは、歌舞伎、講談、能、幸若、人形浄瑠璃、テレビドラマ、映画などになり、今日まで語り継がれてきました。
河合又五郎らは、ひだりなら道方面から来ました。
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