武将の墓 | 島津忠久の墓-2 - 感応寺!薩摩島津家の祖・忠久の創建! | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

「武るるん♪ 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、島津忠久の墓の紹介です。

 

人物名 墓のある施設 住所
島津忠久 感応寺 鹿児島県出水市野田町下名5735

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島津忠久の墓は感応寺にあります。
発見難易度★☆☆☆☆
墓(五廟社)は、案内版があるので分かります。

くるまr駐車場があります。

 

薩摩島津家の祖・島津忠久

惟宗忠久(これむねのただひさ)は鎌倉幕府の御家人で、元暦2年(1185年)、源頼朝により島津荘下司職に任命され、次いで島津荘の惣地頭職に任じられます。
建久8年(1197年)、大隅、薩摩、日向の守護に任じられ、家臣・本田貞親を派遣し、木牟礼城を主城としました。
忠久は島津荘の名をとり姓を島津と改め、島津忠久(しまづただひさ)と名乗りました。

建仁3年(1203年)の比企の乱に連座した罪により、上記三国を没収されてしまいます。
後に薩摩のみが返還され、以降、薩摩を居とし島津家は繁栄を遂げていきます。

なお、島津家が九州に下向し直接統治するのは四代・忠宗になってからの事です。

島津家の祖・忠久創建の感応寺。廃仏毀釈によって破壊される
感応寺は、建久5年(1194年)、島津忠久によって創建されました。
臨済宗の開祖・明菴栄西(みょうあんえいさい)を迎えた禅寺で、最盛期は七堂伽藍を誇る大寺院でした。
しかし、 明治の愚行・廃仏毀釈によって廃寺となります。
明治13年(1888年)、梅嶺和尚によって再建され今に至ります。

寺には島津忠久から貞久まで5代の墓があり、五廟社として祀られています。

※鹿児島県内の廃仏毀釈は徹底的で、県内の全ての寺院が破壊されました。
なので、鹿児島には古いお寺が一切ありません。
残念ですねーショボーン

 

感応寺入り口に建つ仁王像。
廃仏毀釈でお寺が破壊されたため、鹿児島には野ざらしの仁王像がたくさんあります。

 

 

鐘楼。

 

 

見事な蘇鉄。

 

 

本堂。

 

 

軒下と屋根瓦には島津家の家紋が。

 

 

島津家5代の墓・五廟社へは案内版が出ているので迷うことはありません。

 

 

五廟社。島津忠久から貞久まで5代が祀られています。

 

 

島津5代の墓。

 

 

島津忠久の墓。

 

 

神号が刻まれています。

 

 

本立寺跡の島津忠久の墓はこちら。

 

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