武将の墓 | 武田勝頼夫人(北条夫人)の墓 - 景徳院!若き華、露と消える | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

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武田勝頼夫人(北条夫人)の墓の紹介です。
武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」史跡めぐりの旅
ともリンクしていますので、よろしくお願いします。

人物名 墓のある施設 住所
武田勝頼夫人(北条夫人) 景徳院 山梨県甲州市大和町田野389
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武田勝頼夫人の墓は景徳院にあります。
発見難易度★☆☆☆☆

くるまr駐車場があります。

北条氏康の娘、武田勝頼に嫁ぐ
武田勝頼は長篠の合戦の後、北条家との同盟を強めるため、天正5年(1577年)、北条氏康の娘を娶りました。
政略結婚ではあるものの、2人の仲は睦まじいものでした。


勝頼夫人、ピンチからの起死回生を氏神に願う
武田家の行く末が危ぶまれた去る2月19日、夫人は自ら筆を執り武田家の氏神である武田八幡神社に願文 を奉納しました。その内容は、武田家の繁栄を切に願うもので、夫人が真に武田家を思っていることが分かります。


短いながらも夫婦となったからには共に死す事を選んだ勝頼夫人
武田家滅亡間近となった時、勝頼は夫人にこの場から逃れ、実家の北条家へ行くよう諭します。
しかし、夫人は武田家の女として、勝頼とともに滅ぶことを決め、自害し果てました。
※勝頼夫人の最期の様子はこちらの記事 に詳しく記してあります。

婦人は家臣の者に北条家への手紙を託します。
「甲乱記」 に、
「女の身なればどうする事もできず、悔しいが、早雲より代々武家の家なれば、女ながらも、きたなき死にざまは見せませぬとよくよく伝えて欲しいと言い、髪を少し切って添え、歌を詠んだ」
とあり、その際に詠んだ歌が辞世の句となっています。

辞世の句
「黒髮の乱れたる世ぞはてしなき思に消ゆる露の玉の緒」


最後の合戦場、田野の陣所に建立された景徳院
景徳院は小宮山内膳 の弟・拈橋(ねんきょう)によって建立されました。
勝頼が最後に陣を張り激戦を繰り広げ散って行った に景徳院はあります。


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山門。


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本堂。


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甲将殿。こちらに家臣達のご位牌が祀られているみたいですよ。


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勝頼父子と夫人の墓。右から、夫人、勝頼、信勝の墓。安永4年(1775年)に200年遠忌で建立されました。



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勝頼夫人の墓。


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勝頼夫人の生害石。こういうのを見ると悲しくなりますよねあせる


武田勝頼対織田信長、いよいよ、クライマックスですビックリマーク


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