武将な街道めぐり | 南蛮寺跡!本能寺からの抜け穴伝説のある寺も今は面影なし! | 地図付き | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

あと一週間で織田信長の命日・本能寺の変(旧暦6月2日)がやってきます。
そこでしばらくの間、連載中の、武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」 はお休みにして織田信長追悼特集「戦乱の旅-本能寺の変~織田信長の首の行方は?」 を連載します。

炎とともに消えた織田信長の遺骸
1582年6月2日、織田信長は明智光秀の謀反に合い、炎に包まれた本能寺とともに果てました。
信長の遺骸は本能寺とともに灰燼に帰し、光秀は焼け跡から必死になって信長の遺骸を探しますが、発見する事はできませんでした。
遺骸が見つからなかった事は光秀にとって大誤算で、信長の行方が分からぬまま光秀に味方する諸将は少なく、結果、秀吉に敗北を喫してしまいます。

いったい信長の遺骸はどこに消えたのでしょうはてなマーク
数回にわたり、本能寺周辺の史跡や信長の墓などを紹介しながら信長の埋葬地に迫っていきます。
 

関連する人物 訪れた施設 住所
織田信長 南蛮寺跡 京都府京都市中京区姥柳町

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南蛮寺跡は本能寺跡の近くにあります。
跡地の石碑と案内板が建っています。
くるまr駐車場はありません。


跡地は宅地開発が進み石碑と案内板を残すのみ
耶蘇会によって建てられた南蛮寺は、現在の姥柳町(うばやなぎちょう)の辺りにあったそうです。
織田信長の保護のもと、京都のキリスト教と南蛮文化の中心となった南蛮寺でしたが、織田信長の死去とともに衰退。
豊臣秀吉のキリスト教弾圧により天正15年(1587年)に破却されました。
以降再建はされず現在にいたっています。

 

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案内板。


 

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この辺りがかつての南蛮寺跡。いまは何も残っていない。


 

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石碑。



本能寺からの抜け穴伝説はてなマーク本能寺近くに位置していた南蛮寺
南蛮寺には本能寺からの抜け穴が通じていたとかいないとか…。
織田信長が庇護し、村井貞勝の協力のもと建設された南蛮寺ですでので、織田信長の密命を受け抜け穴が掘られたという噂があってもおかしくないですよね。
寺の跡形もない今となっては真相は闇の中ですけどね。

残念ながら、織田信長が抜け穴を通って逃げ延びたという話はありません。
ここにも当然織田信長の遺骸はありませんでした。

信長の遺骸はいったいどこへはてなマーク

次回は大徳寺総見院 を訪れます。


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