「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」 古戦場めぐりの旅、
血洗沢の紹介です。
武田勝頼vs織田信長、「信長怒涛の甲州征伐~勝頼滅びへの道~天目山の戦い」の史跡めぐりの旅
ともリンクしていますので、よろしくお願いします。
古戦場名 | ゆかりの武将 | 住所 |
---|---|---|
血洗沢 | 土屋惣蔵、跡部大炊助、安西平左衛門、武田勝頼 | 山梨県甲州市大和町鶴瀬 |
駐車場はありません。
土屋惣蔵、敵前逃亡の跡部大炊助を討ち取る
跡部大炊助の最期は「武田三代軍記」に記されています。
「武田三代軍記」によりますと、
3月9日夜、小山田信茂は武田勝頼を裏切り、城戸虎口より鉄砲を撃ち放つ。
これにより700余りいた勝頼の家臣は、討ち死に、あるいは逃亡をし、わずか43人になってしまう。
その際、長坂釣閑斎(ちょうかんさい/光堅)、跡部大炊助(勝資)も逃げ去る。
勝頼は土屋惣蔵(昌恒)、安西平左衛門に追討を命じる。
跡部大炊助は、闇夜に月毛の馬に乗り、提灯を持って逃げていた所、土屋惣蔵に追いつかれ、弓矢で撃たれ逆様に落馬し絶命。
土屋惣蔵は跡部大炊助の首を勝頼のもとへと持参。
勝頼は人質にとられていた跡部大炊助の妻子に首を見せたのち、妻子の首を刎ねさせた。
長坂釣閑斎は逃げのびた。
跡部大炊助、妻子を残して1人逃げるなんて…
と思いますが…。
史料によって異なる跡部大炊助の最期
この跡部大炊助の最期も長坂釣閑斎同様 、各史料によって異なっています。
以下、要約。
「武田三代軍記」
敵前逃亡するが、土屋惣蔵に追いつかれ、弓矢で撃たれ逆様に落馬し絶命。
「三河後風土記」
跡部大炊助は諏訪にて討ち死に。
「甲陽軍鑑」
跡部大炊助は諏訪にて討ち死に。
「甲乱記」
勝頼とともに田野で討ち死に。
「信長公記」
勝頼とともに田野で討ち死に。
勝頼とともに散った勇士たちは勝頼とともに景徳院に祀られていますが、跡部大炊助もそこに名を連ねています。
その通りであれば、「甲乱記」、「信長公記」が正しいことになりますね。
土屋惣蔵、敵前逃亡の跡部炊助を討ち取る
再び「武田三代軍記」にもどります。
「勝頼は土屋惣蔵(昌恒)、安西平左衛門に追討を命じる。
跡部大炊助は、闇夜に月毛の馬に乗り、提灯を持って逃げていた所、土屋惣蔵に追いつかれ、弓矢で撃たれ逆様に落馬し絶命。」
と、ありますが、
これが史実とするならば、おそらくその際、土屋惣蔵と跡部大炊助が戦った場所がこの血洗沢のあたりであると思われます。
以下、案内板より。
「この地は土屋惣蔵が逃亡した跡部大炊助を追尾して斬り、この沢で血痕を洗い流したと云われています。」
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