先日リーガルでローファーを購入した。


ネットで買おうと思ったが、サイズが25センチで良いのか25.5センチで良いのか分からなくて困った。リーガルは返品もできるが、わざわざサイズが合わなかった時郵便局まで行ったりするのが面倒だった。そこで「店舗で試す」サービスを申し込んだ。サイズは25.5センチで。


数日後、最寄りの店舗にローファーが届いたという連絡がきたので店に行った。25.5センチのローファーでも履けないことはなかったが、ローファーのためヒモで結ぶわけではないので、歩くと踵が浮くような感じだった。


すると、取り寄せたのは25.5センチだけだったのに25センチのローファーも用意されていた。履いてみたらピッタリ。履き比べができたことに感激して喜んで購入して帰った。


些細なことではあるが、サイズ違いの靴を予め用意してくれていた配慮は素晴らしいと思う。輸送にもそれなりに手間がかかるし、手間をかけたからといって購入してくれる保証もないのだ。


商機をなるべく逃さないというのが店側の視点だと思うのであるが、客にとっては気がきくサービスに他ならない。


客の求めるところを的確に理解しアクションに繋げていく姿勢は、自分も仕事で見習っていきたいと思った。

先日誕生日を迎えました。とうとう50歳になりました。半世紀です。今が21世紀ということを考えると、そのうち半世紀は生きてきたんだと思うと感慨深いものがあります。イエスキリストが生まれてから、まだ人間の歴史って長いものではないんですね。


30歳までを青年期、50歳までを中年期とするならば、青年期は今の自分からは想像できないほど頑張ったけど挫折をした時期でした。大きな病気にもなりました。中年期は病気の寛解と再始動の時期でした。仕事に復帰してゼロからスタートした時期でもありました。仕事はあったけど、青年期ほどの成長はなかったです。空白の20年間のように思います。


そして今壮年期に向けて一歩を踏み出しました。これから60歳まではどのような人生を送るのでしょうか。正直言って今は仕事のプロジェクトが忙しくメンタル的に参っているので、あまり明るい未来が描けません。しかし来年4月のプロジェクトの終わりとともに、改めて自分の方向性について考えてみたいと思います。


この歳になると色々先が見えてきます。年金定期便にも65歳以降の年金額が表示されています。かなり厳しい先行きになるかとは思うのですが、体調に気を配り、適度にストレスを発散させて心身共に健やかに送りたいです。


決意というものはありませんが、「頑張って生き延びること。明日という未来を見届けること」を心の片隅に置き、乗り切っていきたいです。


これからもよろしくおねがいします。

なぜ自分は仕事ができないか、について考えてみた。


仕事とは社会貢献であり誰かの役に立つことであると考える。誰か他の人ができないことを代わりにやってあげてお金という対価を得る。


自分は悪く言えば個人的な人間で興味の範囲が自分に留まっているように感じる。資格試験とかいろいろとってきたけど、目標は自分のスキルの向上や好奇心を満たす事にあり、その先に、得た知識を使って他者を喜ばせようという考えが希薄であった気がする。


今更どうなるものなのか分からないけど、社会の中での自分という存在について考えてみることが必要なのではないだろうか。


考えてみても、具体的なアクションプランが描けないのがだめなところだと思う。


最近これまでいい加減に生きてきたツケが回ってきた気がする。