バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から -6ページ目

バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から

聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4

 

9月17日 今日はヨハネ20:24以降を扱います。

 

弟子たちが秘密部屋で集っており、そこへ突如、時空を割いてイエスが現われましたが、使徒たちのうち“双子”と呼ばれるトマスだけは、ちょうどそのときその場に来ていなかったようです。そこで後日、他の弟子たちは、「私たちは主を見た!」と彼に言います。ところが彼は、「その手にくぎの跡を見、私の指をくぎの跡に差し入れ、手をその脇腹に差し入れない限り、私は決して信じない」と言います。使徒たちの内、自分だけがイエスにまだ会えていないという不安やひがみがどこかにあるのかもしれませんが、ここの記述から、「見なければ信じない人」という彼のイメージは定着しています。興味深いことに使徒ヨハネは、トマスに関して“双子”と結びつけた記述を、11:16,20:24,21:2で合計3度も用いています。したがってこの“双子”には何らかのメッセージが込められているでしょう。双子の片割れが弟子だったかどうかに関しては何も述べられてはいませんが、少なくともこの場合の双子は一卵性のものでしょう。自分がその場にいなかったことが信じられない理由だとすると、もし片割れがその場にいたなら信じたとも言えます。そして、その日彼らは同じ場所にいたのでしょう。つまり彼らは、互いを自分の分身として捉えているのかもしれません。“双子”の存在はヨハネが幼いころから抱いていた不思議の一つであり、彼は晩年にその解を、霊を通して得たのかもしれません。

 

26節を見ると、それから八日後、弟子たちは再び屋内におり、トマスも彼らと一緒にいました。戸には錠がかかっていたのに、イエスは来て彼らの真ん中に立ち、「あなた方に平安があるように」と言われます。彼らは律法の命令通り、過ぎ越しからの流れでエルサレムにずっととどまっているようですが、毎日ここに集っていたのは間違いないでしょう。それでもイエスはすぐには現れてくれませんでした。「八日後」とあるので、信仰が試されていたのでしょう。特にトマスの信仰が。

彼は自分の肉の分身である双子の片割れと共に生きる世界を取るのか、それとも、これから自分の見えない分身となる霊と共に生きる世界を取るのか、ちょうど七日目を過ぎた頃から、後者を選択できる限界に達していたのでしょう。それでイエスは、「あなたの指をここに当てて、私の手を見、あなたの手を持って来て、私のわき腹に差し入れなさい。そして、信じない者ではなく、信じる者となりなさい」と言われます。8日前、当人がその場にいないことを良いことに、トマスがイエスに関して語った大変無礼な言葉をそのまま返されますが、怒りは微塵も感じられません。むしろ、通常は修復した傷なら肉が盛り上がるものでしょう。それどころか霊による修復なら傷跡さえ残りません。ところが、その修復跡は指や手が入るほど窪んでいるようです。それは彼の信仰のためでした。ギリギリだから低く見るのではなく、イエスは、ギリギリだからこそより低くかがんでトマスの霊を起こされます。

 

それに答えてトマスはイエスに言います。「私の主、そして私の神!」。

この部分は、トマスがイエスを神と認識しているという誤った解釈もあるようですが、それはトマスがこの記述で信仰のなさを露呈しているように感じているから、それに追い打ちをかけているためでしょう。しかし、トマスが「私の神」と言ったのは、イエスがかつて語られた教えを自分が理解していることをアピールするためだったのです。

イエスはヨハネ14章で、「神に信仰を働かせる」ことと、「私に信仰を働かせる」こととを両立させる教えを弟子たちに語っておられましたが、その際トマスは、「主よ、私たちは、あなたがどこへ行こうとしておられるのか分からないのです。どうしてその道が分かるでしょうか」と反論を唱えました。それに対してイエスは、「私は道であり、真理であり、命です。私を通してでなければ、だれひとり父のもとに来ることはありません。あなた方が私を知っていたなら、私の父をも知っていたでしょう。今この時から、あなた方は父を知っており、また見たのです」と答えられました。それでトマスは今、その時のイエスの言葉を思い出し、「イエスだけでなく、その父であられる神も見えました!」という信仰を表わしたのです。

 

それでイエスは、「あなたは私を見たので信じたのですか。見なくても信じる者は幸いです」とトマスに言われます。自分の分身の言うことを信じるのは、分身を絶対的なレベルで信頼しているからでしょう。それで自分は実際に見なくても、分身の言うことなら何でも信じられるのです。しかしそれが世のものであるなら、霊の世界では通用しないこともあります。世自体が悪魔の支配下にあるからです。

一方、イエスの存在は、霊という見えない力の働きで信じることが可能です。今日、イエスは地上には存在しませんが、その霊の働きを感じ取るなら、見えない働きが見えてきます。それには、霊を絶対的レベルで信頼することが不可欠です。しかし惑わすものは世です。それで世との関係を断ち切らないと、霊の働きも歪んで見えてくるでしょう。霊自体が歪むことはないからです。イエスはトマスに、世との関係を断ち切ってさらなる高みを目指すように促しておられますが、トマスを通して私たちにもそれを促しておられます。