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バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から

聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4

 

9月10日 今日はヨハネ20:18以降を扱います。

 

マリア・マグダレネは再び弟子たちのところへ行って「私は主を見ました!」と報告し、イエスに言われた通りのことを彼らに伝えます。

そして、「週の最初」の日とあるので、まだその日のうちの遅くに、イエスは大勢の弟子たちの前に驚くような仕方で現れます。その部屋はユダヤ人たちに対する恐れのために戸に錠がかけてあったのに、イエスは来て彼らの真ん中に立ち、「あなた方に平安があるように」と言われます。つまり、部屋の壁を通り抜けて、というよりは瞬間移動でその場に来たのでしょう。とはいえ、彼らがその瞬間を見ることはできなかったでしょう。次の瞬間、気が付くとそこにイエスはおられたのです。彼らは超人的な指導者を失った残党的な立場だったので、非常に心細かったでしょう。残党狩りがあったかどうかに関する記述は福音書に記されていませんが、もし派手に抗議して目立っていたなら、間違いなく彼らも捕えられていたでしょう。抗議などしなくても、いつ追手が迫って来るか恐れていたわけですから、祭司長たちにとって彼らは、黙って見過ごせるような存在ではなかったはずです。したがってイエスとしても、一刻も早く彼らに平安を取り戻してほしいと願っておられたのです。

 

イエスはご自分が蘇えった事実を彼らに納得させなければなりませんので、そこは霊者として復活したとか人間として復活したとかを問題にせず、まず彼らが慣れ親しんだ肉の体で現れ、彼らが知っている最後の状態、つまり手や脇腹に深い刺し傷がある様子を見せ、本当にご自分が生きていることを確認させます。それまでイエスは、極少人数の前にしか姿を現さなかったので、各自は見たことに絶対的な自信が持てなかったでしょう。しかし今回は比較的大勢の弟子たちが集っていたので、その実感を共有することができます。

こうして彼らは、イエスが本当に蘇えらされたんだということを認識できて歓びます。そしてイエスは再び彼らにこう言われます。「あなた方に平安があるように。父が私をお遣わしになったと同じように、私もあなた方を遣わします」。

今、彼らは、自分たちがこれから何をすべきかを全く知りません。それでイエスは、今後の彼らの任務、目標を知らせることによって、平安がより確かなものになるよう導かれます。ただ集まるだけで、ブラブラと何もすることがなければよけいに不安になるからです。

 

そしてこう言われたあとで、彼らに息を吹きかけてさらにこう言われます。「聖霊を受けなさい。あなた方が人の罪を許すなら、それは許されています。あなた方が人の罪をとどめておくなら、それはとどめておかれます」。

これはどういう意味でしょう? もし人の裁きが、特定のだれかの感情に左右されるとするなら、それは何と恐ろしいことでしょう。したがってそのような意味ではありえません。イエスは冒頭で「聖霊を受けなさい」と言われましたので、許すかどうかは聖霊に判断が委ねられているということでしょう。たとえ霊に逆らって逆の判断を下していたら、それもまた正されることになるでしょう。またイエスは、彼らが「人の罪を裁く」とは言われませんでしたので、彼らが人の罪をとどめているあいだに、聖霊がその者の裁きを完了するため行き巡ることになるでしょう。それでここで言う「罪」とは、弟子たちに対する迫害のことでしょう。敵たちは何度も痛い目に遭うのです。そして悔い改める機会を与えられてもいるのです。もちろんこれは、聖霊を受けた者たちとの関わりで起きることなので、それによって本人も自分がだれなのか自覚できるでしょう。