10月1日 今日はヨハネ21:9以降を扱います。
弟子たちが陸に上がった時、そこに炭火があり、その上に魚が置いてあり、またパンがあるのを見ます。これらはみなイエスが霊によって備えたものですが、彼らはみな不思議に思ったことでしょう。「一体イエスはここで何をしておられたのだろう?」「あれ以来どこで何をしておられたのだろう?」。
しかしイエスは、まず朝食を彼らと共に取ることを望んでおられ、こう言われます。「あなた方がいま捕った魚を少し持って来なさい」。
そこでペテロは舟に乗り、大きな魚がいっぱい、百五十三匹も入った網を陸に引き寄せますが、通常なら耐久限界を超えて破れているはずの網が何ともありません。彼らには、しだいによみがえってくる懐かしい過去の記憶があったでしょう。かつてイエスと寝起きを共にしていた時、これが普通の日常であり、これがイエスと共にいるという証しでもあったのです。それにしても、魚の数が百五十三とはずいぶん細かい表現です。おそらく、この後彼らはこの魚を売って金に換えたのでしょう。
そこでイエスは、「さあ、朝食を取りなさい」と言われ、パンを取って彼らに与え、魚も同じようにされます。「腹が減っては戦が出来ぬ」とはよく言われますが、イエスはこれから耳の痛くなるような重い話しを弟子たちにされますので、それに耐えられるように、まず体に十分なエネルギー補給をしてあげようと思ったのでしょう。また、常々共に食事を取る人々が、最も信頼できる仲間の範ちゅうという認識であることから、ユダ・イスカリオテ級が出るとすれば、そのような形態の食事習慣をする人々の中からそれは出るという暗示が今日の私たちに向けられているのでしょう(詩編41:9 ヨハネ13:18)。物見の塔組織で言えば、統治体とかベテル家族とかです。
12節には、「『あなたはどなたですか』とあえて尋ねる者は一人もいなかった。それが主であることを知っていたからである」とあるので、やはりイエスの外見は、以前のそれとは異なっていたと考えるのが正しいでしょう。もしかすると、以前、エルサレムの秘密の部屋で現れた時とはまた別の外見だったかもしれません。そのようにコロコロと変身されるのは、彼らがイエスを外見ではなく内面で認識できるようにするための訓練なのでしょう。