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バルタンセブンのブログ ものみの塔 JW.org という霊的地所から

聖書を研究し、預言の言葉を最新のものにするための場です。大患難までに油を蓄えておきましょう。マタイ 25:4

 

10月8日 今日はヨハネ21:15以降を扱います。

 

さて、彼らが食事を済ませた時、イエスはシモン・ペテロにこう言われます。「ヨハネの子シモン、あなたはこれら以上に私を愛していますか」。

それまで漁業は彼にとっての生業でした。大漁は彼にとっての喜びであり、それを売って得たお金は、生活のすべてを支える基本です。したがって、漁に精通し、安定した漁獲を得続けることが、彼にとって日々の目標であり「愛」だったのです。今日のほとんどの人々にとっても、先立つ物はお金であり、したがって、生活を支える分のそれを愛すること自体は間違ってはいないでしょう。その中には、ふさわしい程度の娯楽の分も含まれているはずです。しかし今、ペテロはイエスとの数年の交わりを通して、とてつもない別世界がこれから始まろうとしている事実を知ってしまいました。いいえ、それはユダヤ人であればだれもが聖書からすでに得ていた知識でしたが、彼が改めて知ったのは、その王国で中核をなす人々の一員に自分が招待されているということでした。それで彼はかつてルカ5:8で、「わたくしからお離れください。わたくしは罪深い男なのです、主よ」とイエスに言いました。

イエスはそれに対して、「恐れなくてもよい。今から後、あなたは人を生きながら捕るのです」と言われたのです。つまり、ペテロは既知の「愛」には精通していましたが、未知の「愛」を受け入れることを恐れて逃げ腰になったのでしょう。それは、彼がまだ魚から人への転換方法に慣れておらず、聖霊もなかったからです。

 

それに対してペテロは、「はい、主よ、私があなたに愛情を持っていることをあなたは知っておられます」と答えますが、彼があえて「あなたを愛している」ではなく、「あなたに愛情を持っている」としたのはなぜでしょう?

まさにそれが、彼がまだ魚から人への転換が出来ていないことの証拠で、彼はそれを正直に表現しているためです。「大漁に愛情を持つ」と言うことは単なる妄想に過ぎず、それを実際に得て初めて「大漁を愛している」と言えるでしょう。つまり、積極的に全身全霊で飛び込んでこそ「それを愛している」と言えるのです。これは魚から人に変わっても同様の事です。しかし、今の彼にはそれに向かって突き進むためのきっかけが何も与えられていません。つまり、時がまだ来ていませんでした。それでイエスは、「私の子羊たちを養いなさい」と、今後の目標を与えてくれたのです。そしてイエスはこの質問をもう一度繰り返されますが、その際は、「これら以上に」という文字を省かれます。これによって、「そもそもあなたのうちに私への愛などあるのですか?」という意味合いの文となるでしょう。そしてこれは、彼にとっていい意味でのイジリとなったでしょう。「内面では、正しいことを行ないたいと熱烈に願いながら何一つできない人々、かつては自分もそんな人々の一人だった」と言える時代がまさに来ているからであり、そんな彼にイエスは、「私の小さな羊たちを牧しなさい」と目標を与えてくれたのです。

 

三度目にイエスは、「ヨハネの子シモンよ、あなたは私に愛情を持っていますか」と言われ、これを聞いてペテロは悲嘆して、「主よ、あなたはすべてのことを知っておられます。私があなたに愛情を持っていることを、あなたは気づいておられます」と答え、イエスは「私の小さな羊たちを養いなさい」と言われます。

ペテロがこれからやろうとしている業は、とてつもなく壮大で危険が伴うものです。ユダヤ人国家を敵に回し、当時の世界強国ローマを敵に回し、あらゆる偽りの宗教を敵に回し、同じ崇拝者の中からも偽り者たちを敵に回して突き進んでゆかなければならないのです。しかも、もうイエスは見えるところにいないのです。妄想だけでは一ミリも進んでゆかないでしょう。それで、定めの時が来たらすぐに行動に移れるよう、イエスは強めのイジリによってペテロの内面に反動のエネルギーを蓄積させていたのでしょう。そして、それを見ていた他の使徒たちは、反響板となっているペテロを通して、例えの効能で、今日の日の出来事が強烈に心に突き刺さり、脳裏に深く刻み込まれていたでしょう。この後彼らは毎日集まって、これまでのイエスとの歩みを注意深く思い出し、言葉を思い出し、話し合う日々がペンテコステの日まで続いたでしょう。