塩江 藤澤(藤沢)氏について 増補改訂<Ⅳ>
◆讃岐国香川郡安原甲斐股 『藤栄録』
藤澤氏の祖のことが書かれている『藤栄録』が、藤澤実規氏より提供された。(2016年11月)
この『藤栄録』によると、
“この藤澤氏と称するは、元信濃国(現長野県)諏訪大明神の神族の出にて大祝(おおほうり)敦貞の次男敦真、その次男光親、諏訪上の大社近くの千里邑(むら)を領し千里太夫光親と称し、長男は千野太郎光弘といい、次男はこの千野を一山越した伊那谷の藤澤邑を領し信濃藤澤祖藤澤神次親貞と称し、三男も同じく藤澤神三親久と称した。即ちこれ讃岐藤澤の氏祖である。
その弟藤澤光重これ木曽義仲の将にして備中水島合戦に敗れこの地に住せし藤澤氏の祖なり。
大治二年(1127) 信濃から光重等一族こぞってこの地に赴任してきたのである。
後に、伊予の国に橘公成が伊豆の右衛門佐頼朝の特命を受けて四国の平家方の御家人の切り崩しに奔走していて、伊予の河野道清、道信親子等もこれに応ずるとか。
元暦二年(1185)二月 この国の信濃方は藤氏一門と共に源氏に内応し屋島の戦いに抜群の軍功をあげた。新太夫道信は戦死、その子新太夫光高、その子新左衛門光成、その弟重永共に大将義経公よりお褒めの言葉を賜る。
戦いに敗れた平家方の公家、女房等連れて山路をさして落ちのびる。そして安原の里に皆住み着きぬ。 里の人皆親切にこれらの人をいたわれり。そして、落人はこの歌を詠んだ。
『落ち延びて 行く宛も無き都鳥 此の山陰ぞ 心泰原』
花の都を落ちぶれ、この山中に手慣れぬことも多かりき、ただし安堵の心は泰(やすらか)き。
安原の地名の起こりはこの歌から起こる。
やがて、源氏から追っ手が来る。落人の中に越前三位中将通豊公の忘れがたみ八十姫君がいた。藤澤の館に庇い奉る。のち女房となる。これにちなみて藤澤家の女房は上羽蝶之紋を用うる由縁なり。
世は戦国時代となり、甲州天目山に敗れし武田の残党が阿波の脇城に逃れてきていたが、長宗我部に攻められ落城する。信由、大滝山越えし讃岐安原藤澤新太夫重広の下に寄れり。この藤澤家、三好家の姻戚にて快く迎えられる。
その後、重広の女を娶りこの谷の古屋敷を修復しこの地を分領す。
父祖の墓を建立す。世人、この屋敷を甲斐の股武田屋敷という。また甲斐股城とも称す。また墓を「信玄塚」とも称す。信由三男信重の次男信辰、父の跡を継ぎ甲斐股武田屋敷にて甲州流軍学、兵学香陽塾主たりしも、大阪の残党の詮議厳しく、武田の氏を改め藤澤を持って氏となす。
五代信成、次男信隆、享保二年(1717)樺川に一家創立。十代信正の男正興、正清兄弟はゆえあってこの地を去り、樺川杏子畑の地に移る。
その後、甲斐股武田屋敷に来たり住居せる者あるも古き武田家の流れにはあらじ。よって、新しく来る者を「新し屋」と称せり。
正興は杏子畑より柞野の地に移り蔵を有す立派な屋敷に住し安楽に暮らしけり。
そして、現代、藤澤家は脈々と受け継がれている・・・・・・・。

◆藤澤家系累代墓碑銘 現代語訳 早井安祥氏
樺川の地に、藤澤家累代墓があり、大正元年十一月に尾形多五郎氏撰書の「藤澤家系累代墓碑銘」がある。それによると、
越後から藤澤入道が内場に移り住み、その子藤澤新太夫道信は元暦二年二月屋島において源氏方に味方し死す。その子孫は諸々に散在す。
天正十一年武田四郎勝頼の家臣朝比奈五郎とその次男八郎信能が逃れ讃岐安原の藤澤新太夫重弘を頼る。重弘は娘を信能の妻となし、甲斐ノ股領とし安住す。その後は「全讃史」から引用されており、藤澤八郎と名乗り、別子に入り別子八郎と名乗る。
信能の孫、惣兵衛樺川木地屋に移住する。享保年間(1716~1735)惣兵衛の息子半四郎、休場を開拓し農をもって営み業となす。又右衛門、惣兵衛、虎松、惣兵衛等ここに至り、そして、現代、半蔵の息子藤澤源次郎へと綿々と続いている。


◆甲斐国武田氏から讃岐国塩江藤澤氏へ 藤澤壱族家系図
提供:藤澤実規氏
塩江町椛川地区に藤澤実規氏(現在中村地区在住)の祖先である「藤澤家累代之墓」があります。
藤澤さん、祖先のこといろいろ調べられて、この程、詳しい藤澤壱族家系図を作成され、塩江町歴史資料館へ寄贈していただきました。
甲斐源氏の宗家・武田氏第十八代当主武田信虎(明応3年(1494)~天正2年(1574))、その長男が武田晴信(信玄 大永元年(1521)~元亀四年(1573))。そして十男信由(信顕 ?~天正九年(1582))は、信玄の異母弟で幼少期は信玄と家臣団により駿河国に追放された信虎の元で養育されたと思われますが、弘治二年(1556)三月に三好長慶の計らいにより、大和国から招かれて脇城城主となりました。天正十年(1582)八月十七日に、長宗我部軍は三千余の兵で脇城を攻撃し、城兵はわずか五百程度であったが、長宗我部軍の猛攻の前に五日間耐え続けたといわれています。そして8月22日に信顕は城を脱出し、阿讃山脈を越えて讃岐国へと逃亡するが、長宗我部軍の追撃により讃岐国大川郡で戦死しました。信顕の遺体は、家臣の大塚善太夫が付近の東昭寺に埋葬しました。法名は恵命院仙室等庵居士。信顕の子・信定は、父に同行せず城に残り、16歳という若さで自害して果てたといわれています。
信顕の子信重が初代甲斐股城主となり、後、武田信辰の子信昌から藤澤氏に改名します。
そして、信昌の子信成、そして、その子藤澤信隆は享保年間(1716~ 1735)は椛川上休場へ移り惣兵衛と称し一家を創立します。
このころ、別に藤澤藤原氏という一族があり、七代の時、子がなく養子を迎え藤澤氏となっています。
◆塩江町の藤澤家、祖は信濃の藤澤氏とか、越後の藤澤入道とか、武田氏の直系だとか、武田氏の家来とか、いろいろな資料をみると複雑に絡み合っていますが、ずっと遡るとどうやら二つの説があることがわかりました。
一つは、甲斐国武田家から藤澤氏へ、もう一つは、讃岐守藤原家成から内場城主藤新太夫光高が藤澤氏となったという説です。
