2023年4月29日(土・祝)、久々奥会津ドライブ記事の続きです。
福島県南会津郡只見町にある「只見保養センター ひとっぷろ まち湯」を後にした僕は、
国道252号線を北上しました。
そしてピラミッドのような蒲生岳の脇を走りました。
蒲生岳は越後三山只見国定公園に属し、
標高は828mです。
僕はピラミッドではないかと密かに思っているのですが、
地元では、アルプス山脈のマッターホルンに似ているため、
「会津のマッターホルン」と呼ばれているそうです。
そして久々にここに立ち寄りました。
我が町、長岡の英雄、河井継之助の資料を集めた「只見町河井継之助記念館」です。3度目の来館になります。同じ只見町にあります。
「河井継之助記念館」は地元、長岡市にもあるのですが、
只見町にある「河井継之助記念館」の方が先にかなり先にできています。1973年だそうです。
長岡市の「河井継之助記念館」は2006年です。
なぜ長岡市に、なかなか河井継之助の記念館ができなかと言うと…
僕は小学校3か4年生の社会科の時間に、
河井継之助は戊辰戦争の際に、
新政府軍との和平交渉に最後まで辛抱強く臨み、
しかしそれがかなわず新政府軍と戦うこととなり、
残念ながら新政府軍に敗れ、亡くなってしまった長岡藩の英雄と習いましたが、
実際には地元長岡では、長岡の町を河井継之助の判断ミスで焦土と化し、
その後、復興の苦労を味合わせたと考えた人もおり、
評価は人により異なり、
河井継之助を憎んでいる人もいるそうです。
今でも長岡市にある河井継之助のお墓は、崩されたりするそうです。
「只見町河井継之助記念館」の前には只見川が流れています。
なぜ只見町に「河井継之助記念館」ができたかと言うと、
戊辰戦争で負傷した河井継之助は、
会津藩へ合流し、新政府軍と戦うために、
八十里越という新潟から福島へ抜ける街道を移動していたところ、
只見町にて、傷が悪化し、亡くなってしまい、終焉の地となり、
そこで終焉の地に「河井継之助記念館」ができたそうです。
ガイドさんが説明してくださり、
ガイドさんに付いて見学しましたが、
地元長岡では河井継之助の評価は二分しているが、
福島では河井継之助の評価は高く、
長岡フレンドリーであるとお話されていました。
河井継之助が長岡藩の武装化を強化するために購入した「ガトリング砲」です。幕末当時、日本には三台しかなく、そのうち二台が長岡藩にあったそうです。
河井継之助を一躍有名にしたのは、
司馬遼太郎の歴史小説「峠」ですね。
先程の只見川の画像に、「司馬遼太郎が眺めた場所」という記念碑が立っていますね。
近代的合理主義に立ち、時代を見据える先見性と実行性を有しながらも、
「藩」や「武士」という束縛から自己を解放するまでには至らず、
最後には武士として、長岡藩の家臣として、
新政府軍に対抗する道を選んだ英雄の悲劇を描いています。
ガイドさんは、新政府軍側の岩村精一郎については、悪く語っていました。
歴史の真実はわからず、
歴史は受け取り手によって変わるということですね。
歴史教育は大切ですが、
そこに良い悪いの価値観の封入はできるだけ排除し、
なぜその事態が起こることとなったのか、
そのプロセスを教えるのが歴史の授業ではないかと思いました。
岩村精一郎には、岩村精一郎の言い分があったのかもしれません。
では!