バラエティ番組などで、芸人が「いじられる」という場面が多々ある。
そういう場合、いじられた側は「おいしい」となる。
なぜなら、いじられたときに笑ってもらえるからである。
「こんなところに前足が」
「豚じゃねえわ」
豚っぽい芸人が豚っぽいことをいじられ、笑いを呼ぶ。
笑いを作り出すのが仕事である芸人が、笑いを提供できたことになる。
そしてまた、その番組に呼んでもらえる。
だから「おいしい」のである。
このように、「いじり」が成立するのは、いじられた側にメリットがある場合である。
逆に、いじられた側にメリットがない「いじり」は「いじめ」になりうる。
「豚みたい」
「・・・」
「豚みたい」と言った側はまわりにウケるかもしれないが、言われた側はイヤな思いをしているかもしれない。
何度も繰り返されれば、リッパな「いじめ」になる。
「宿題」と聞いて、どんな思いを抱くであろうか。
宿題には「出す側」と「出される側」ある。
私も学生の頃は「出される側」だった。
そして今は「出す側」である。
宿題を出せば、それを採点し、間違っていればそれを教える、という仕事が発生する。
「出す側」からすれば、出さないほうがラクである。
一方、宿題を出されれば、面倒だなと思いながらやらざるを得ない。
「出される側」からしても、出されないほうがラクである。
ではなぜ「宿題」は存在するのか。
学んだことを習得するためには反復練習が必要である。
反復練習のためには時間が必要である。
塾の授業の大半は新しいことを学ぶ時間なので、反復練習の時間を十分には取れない。
だからその分を家庭でやってほしい。
それが私たちが出している「宿題」である。
学んだことが習得できていれば、成績が上がる。
成績が上がれば、志望校に近づく。
これが宿題を「出される側」のメリットである。
宿題をイヤイヤやっているうちは「いじめ」を受けている気分かもしれないが、メリットを意識して取り組めば、イヤイヤにはならないはずである。
私たちが出さないほうがラクなのに宿題を出しているのは、「いじめ」ではなく、みんなに「おいしい」思いをしてもらいたいからである。
そして、宿題にはそんな目的があるということも、私たちは折にふれ説明しなければならない。
小さな決断、大きな未来→https://www.sinsuku.jp
レンヤ「宿題サボっちゃおかな」
ブンタ「もうやりたくないね」
モンテ「コラ、ちゃんと見てるゾ」